[p.0966][p.0967]
御府内備考
六十七赤坂
赤坂は武蔵風土記に、荏原郡赤坂庄、公穀三百六十九束、三毛田、仮粟弐百弐拾三丸、出黄麦〓等、又貢鶏鷺等と載たり、荏原郡と書るは謬にや、今赤坂と称する処は、全く豊島郡に属し、古名赤坂庄貝塚領壱つ木〈或は人継とも書す〉村と号せし由雲伝ふ、〈〇中略〉紫一本に雲、赤根山赤坂、今の紀伊家の中屋鋪おいふと、又加々侯遠清が江砂余礫には、赤坂の号は、御入国以後松平安芸守下屋敷の地、山赤土なる故に、赤阪といふと記し、江戸図説には、紀伊国坂お、古へ赤坂といひ、紀伊候御中館の地お、元赤根山といふ、茜お多く作りし地にて、茜山なるお転じて赤坂といふとも記せり、未だその正しき説おきかず、按に一つ木は、古へ上一つ木村下一つ木村と別ち称して、広き地名なり、又赤坂は、元此一つ木中の小名なりしが、後手広く推及びて、総名となりしなり、猶橋場は、元石浜中の小名なるが、後総名となりしに同じ、今赤坂と称する地域の大やふは、東の方御堀に限り、西は青山に接し、南は麻布に隣り、北は紀伊殿御屋舗に限たれど、昔は猶四つ谷御門外辺迄、一つ木の地域なりしとて、一つ木町名主八郎左衛門所蔵、上り地記録の内に、十一石弐斗四合四勺、寛永十二年、麹町十丁目尾張様へ渡るなど載たり、