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新編江戸志

四谷 四け所の谷あるゆへに四谷といふ、千日谷、〈四谷のうち〉茗荷谷、〈大久保なり〉千駄谷、〈青山に近し〉大上谷、〈高井戸辺、四谷よりは凡一里半余も隔たり、〉四谷名主勘四郎に尋るに雲、往古はたヾ、武蔵野に続たる壙野にて、させる家居もなし、はづかに家四つあり、梅屋、木屋、〈今久保屋といふ〉茶屋、布屋の四軒有り、甲州往来の旅人のやすみ所なり、然るに御当地日々御繁昌に付、江戸伝馬町塩町の代地、或は糀町辺の寺社の代地替地被仰付、錐お立るの地もなき様になりぬる故に、四つ家名さへ今はうせて、四谷と書かへぬ、されども右四家のうち梅屋保久屋は、子孫今に此地にあり、その地の高札にも、いまだのこりて有り、 往古此辺は、千駄け谷に属する、北条家旧記に四谷は見えず、千駄け谷の地名は見ゆ、江戸砂子に四つ谷といふは、千日谷、茗荷谷、千駄け谷、大上谷等の四谷あるゆへなりといふは非なり、四谷雑談にいふ、寛永の頃までは、外曲輪は所々に空地多く、就中御城西の方糀町の方に至りては、萩薄生茂り、野鶏蟇のみ多く集りて、人のまれなる叢の内に、人家四つならではなかりし故に、其所お四つ家と雲けり、其以後次第に家つヾきになるに随ひて、自然に四谷と書成れるとぞ、