[p.0971][p.0972]
御府内備考
四十一小石川
江戸志に、此地は小石の多き小川幾流もある故、小石川と名付しといふ、こは最古世の話なるにや、詳なる事お聞ず、正保改の武蔵国図には、今の御薬園の西なる田間より、伝通院後の方へ達する流と覚しき川お、小石川と注したり、則江戸砂子に、伝通院の後の流れ、猫また橋の川筋お、小石川の濫觴と書しもの是なり、今は小石川と唱ふる地最広し、南は小石川御門外なる御堀に限り、北は巣鴨に至り、東は本郷駒込に添ひ、西は小日向に隣り、乾の方は雑司ヶ谷村にも少しく接せり、されど北西の方に至りては、水陸の田あり、又在方分に属する抱地等多ければ、御府内に属する地は三分の二におれり、又金杉は今小石川の内なれど、古くは別に一村立し地とみへたり、〈〇中略〉按に小石川の地名と成しも古き事にや、回国雑記に、小石川といへる処にまかりて、我方お思ひ深めて小石川いづこお瀬とかこひ渡るらんと、見へたり、是文明十九年の紀行なり、又小田原北条役帳に、島津孫四郎、五貫四百八十文、小石河内法林院分松月分、及桜井買得五十六貫五百八十壱文、小石川本所方、元有滝知行などみへたり、又黄葉集〈烏丸大納言光広卿集〉に、江戸に侍る頃、小石川といふ処にて、久かたの月みる宿のすヾしさも隣ありけり石川の水、と載せたり、一説に神社略記お引て、白山権現は加賀国石川郡より勘請せしゆへ、小石川の名起りしといふ、是最無稽の言なり、白山権現お此地に移せしは、元和元年の事といへり、