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御府内備考
四十五小日向
小日向は昔鶴高日向といひし人の領地なり、家絶し後、古日向があとヽいへるお、いつの頃よりかこびなたと雲来れりと、〈江戸砂子〉小日向と号するは、鶴高日向が領地なる故名付るよし、小日向名主飯塚三四郎は、鶴高日向が一族のよし、又小日向水道端鶴高山善仁寺は、日向が開基にて、一向宗なり、今に飯塚三四郎檀家なり、〈江砂余礫〉按に、此説覚束なし、もし古日向が旧領とせんには、こひうがとぞ称すべきなり、転じてこびなたといふもの、附会の説に似たり、又鶴高日向と称せし人は、他の所見なき人なり、又山岡明阿、和名抄豊島郡の郷名日頭といふは、小日向にやといひしと、うけがひがたし、北条役帳に、興津加賀守、拾弐貫九百四十六文小日向分元太田源十郎知行、又太田弥三郎、弐拾弐貫八百四十文、小日向弾正屋敷、但太田新六郎与新堀方所領替、十四年以来致之、大普請之時半役、又恒岡弾正忠、十六貫五百七十文、小日向之内、又本住場寺領、廿壱貫四百四十文、小日向屋敷分太田大膳知行之内入と見へて、古より広き地名なり、正保頃の郷帳には、小日向村、田方畑方すべて廿五石三斗二升余、内壱石余野村彦太夫御代官所十八石余樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門、喜多村彦右衛門、御代官所五名常光院領と見へたり、〈〇中略〉昔の広狭は詳ならず、今の地形の大様は、東北の方小石川に境ひ、南は牛込に続き、西は関口及護国寺領音羽町桜木町等に限れり、されど武家屋敷の接界に至ては、半は小石川の地にて、半小日向に属する類も少なからず、