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御府内備考
二十一下谷
国華万葉記に、下谷は上野に対したる名なりといへり、今その地形お按ずるに、上野は固り高燥の丘にて、その地に続ける下湿の地なれば、上野に対せし呼名といふ事理あるに似たり、風土記残篇に、下谷岡と載たるは、上野お指ていへるにや、されどかの記は後人の偽書なりといふ説あれば、いかヾはあらん、永禄改定の小田原役帳に、江戸廻下谷菅野分三十五貫九百文の地お、大谷十郎左衛門領せし由載たり、又松隣夜話に、永禄七年太田三楽、武州下屋と雲所にとりでお拵へ、〈砦の跡詳ならず、是も上野の内などにや、〉取続て松山辺へ節々働きいづとも見えて、古き地名なり、地形、古は南の方今の神田川に及び、北は坂本金杉の二村に限り、東は浅草鳥越に続き、西は上野湯島に添ひ、中央不忍池の下流東西に貫きて、南北に分れし村落とおもはる、御入国の後、不忍池の下流お埋られ、おしなべて平衍の水田と成し由は、羅山文集所載、武州刕学十二景の内、下谷耕田の詩、及同題杏庵堀正意が詩の趣にてもおして知らる、〈全詩下に載る聖堂蹟の条に出す〉其後内神田に在し町並お下谷へ移されしより、南の方過半外神田と成り、又西の方不忍池の南岸次第して陸地と成り、仲町茅町七軒町等の町並出来て下谷に属し、又北の方坂本金杉三の輪竜泉寺四村に及びて、下谷に属する町並と成しゆへ、地形大に変じたり、今下谷と唱ふる四域は、南の方外神田に境ひ、北は小塚原中村町、東は浅草、西は湯島本郷根津に続き、西北の間上野の地差入て、最広き地名となれり、〈上野町は、野の地の差出たる如く見ゆれど、左にはあらず、元来下谷の内なりしお、東叡山御建立の時、山内より転地せられし町並なれば、今姑く下谷に附録す、又池の端仲町の辺は、元何れに属すべしとも定めがたけれど、同じつヾきなる茅町お下谷といへば、是も姑く下谷に属す、又坂本金杉三の輪竜泉寺町の類は、元来その村々に属する地なれど、こは当今現に下谷某町といふおもて、そのまヽ下谷に附記す、〉