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江戸紀聞

浅草 此地は古の千束郷のうちなりと見ゆ、〈千束郷、後は千束村ともとなへし也、〉既に浅草寺の鐘の銘にも、豊島郡千束郷金竜山浅草寺としるせり、〈此銘は、後小松院の御字、至徳四年にしるす所也、〉浅草の地名も古き世より伝ふる所にして、東鑑等にも載たり、又江亭記に雲、東望〈江戸城よりさして雲〉則平川漂緲兮、長堤緩廻、水石塊〓兮、佳気鬱芳、謂之浅草浜と雲々、〈文明八年の紀なり〉又廻国雑記に雲、浅草といへる所にとまりて、庭に残れる草花お見てと雲々、〈歌は略しぬ、此記は文明十八年の記なり、〉又此辺ふるくは工匠、或は刀鍛冶など居りし所と見へて、東鑑、治承五年七月三日の条に、若宮営作の事、その沙汰ありて、鎌倉中お穿鑿ありしに、しかるべき工匠のなかりしに、武蔵国浅草の大工字郷司おめし進ずべきのむね、御書おかの所の沙汰人等に下さると、又同月八日の条に、浅草の大工鎌倉へ参上の間、営作お始めらると雲々、又北条家分限帳に、浅草の内四貫三百文の地、江戸鍛冶の所領とす、同き書に、千束村四貫二百九拾文の所、江戸番匠領なりと雲、是北条家よりあておこなふなり、この比までも、浅草の地は番匠鍛冶など領せし所なれば、世々名だヽる工匠のおりしことしるべし、