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燕石雑志

わがおる町 ゆたけき御代の長久なる随に、物として今大江戸に具足せざるはなし、しかれども昔ありて今なきものは、神田の勧進能、〈明神の社地にありしといひ伝ふ〉説経座、〈堺町天満八太夫〉耳の垢取、〈名お長官といふ、神田紺屋町三町目におれりと、江戸総鹿子に出づ、〉獣の芸躾(しつ)師、〈水右衛門と称す、湯島天神前におれりと、同書に載たり、〉被衣したる女子、野呂間人形つかひ、碁盤人形つかひ、山猫まはし、おはらひおさめ、すたすた坊主、太平記よみ、〈街頭に立て太平記およみ、銭お乞しもの、〉唄比丘尼、五月の菖蒲人形売、扇の地紙売、奉書足袋売、〈紙にて足袋おつくりて、雨中に新吉原にて売しとぞ、〉これら今はなし、このうちすたすた坊主、おはらひおさめ、唄比丘尼と、扇売は、二三十年以前までありけり、十歳前後の小比丘尼ども、黒き頭巾お被り、裾お高く引あげ、腰に柄杓お挿たるが、三四人お一隊とし、老尼に宰領せられて、人の門に立、いと訛(だみ)たる声してうたお唄ふに、物おとらせざれば、おやんなといふて催促せり、昔は簓おすりて唄ひしかば、今に比尼簓の名は遺れりとぞ、地獄変相の円お説示して、愚婦お泣せし熊野比丘尼の流なるべし、伊勢比丘尼の事は、自笑が愛敬昔男といふ冊子よくその趣お尽せり、扇売は地紙の形したる箱おかさねて肩にし、毎夏に巷路お呼びあるき、買んといふ人あれば、その好みに任し、即坐に是お折て出しき、唯今三十以下の人は、かヽる事おもしらざるべければ、年のおはりの霊祭は、建武の比既に絶たるが、東のかたにはなほありと、兼好が徒然草にはいへれど、今は東にても俗子はさる事ありともしらずなりぬ、京の懸想文売、伊勢の衝入泉州堺なる九月の雛祭も、僅にその名お存するのみ、近属江戸にて猫の画かヽんと呼びあるきて生活としたるものありしが、しばしが程にて跡なくなりつ、又猫の蚤おとらんと呼びあるきて、妻子お養しものもありけるとぞ、これも遠き事にはあらず、猫の蚤お取らせんといふものあれば、まづその猫に湯おあみせ、濡たるまヽ毛おひかざる獣皮へ裹ておくに、猫の蚤悉その皮へうつるといへり、工夫はさることなれど、かくまでに猫お愛するもの多からねばや、これも長くは行れず、亦南京操といふ人形は、予〈〇滝沢馬琴〉が少かりしころまで、両国橋のこなた広巷路の匂欄にてしたり、狂言は、一年中国姓邪の虎狩の段のみおして見せたりしが、いつの程にか絶て、その跡今は軽業おするなり、黄精売、辛皮売、麻売など、予が幼稚かりし比までは、毎春に日としてその呼び声お聞ざる事なかりしが、今はいと〳〵希になりつ、夏日街頭に立て、水一碗お一銭に売ことは、いづれの比よりといふよしお詳にせねど、江戸の外にはかヽる事なし、実に海内の大都会也、仰べし、亦予がものこヽろ覚る比までもなくて、今盛に行るヽものおほかり、錦絵は、明和二年の頃、唐山の彩色摺にならひて、板木師金六といふもの、版摺某甲お相語、版木へ見当お付る事お工夫して、はじめて四五遍の彩色摺お製し出せしが、程なく所々にて摺出す事になりぬと、金六みづからいへり、明和以前はみな、筆にて彩色したり、これお丹(たん)画といひ、又紅画(べにえ)といへり、今に至ては江戸の錦絵その工お尽せる事、絶て比すべきものなし、さはれ近属は、紅毛(おらんだ)の銅版さへこヽにて出来、陸奥なる会津人すら、彼錦絵お摸してすなれば、世人既に眼熟て奇とせず、彼金六は文化元年七月身まかりぬ、当初彩色摺といふものはじめて行れし時、その美なること錦に似たりとて、世挙て錦絵の名おば負しけん、何ごとも品類多くなりては、賞玩すべきものも賞玩せず、隻世に希なるものお愛たしとするは、奇に誇らんとの為なるべし、亦紙煙草入といふもの、予が幼稚かりし比までは、伊勢より出すものと、下野なる宇都宮より出すものお、人々賞玩したりしが、これも程なく細工人出来て、今江戸より出す紙煙草入は、世に敵手なきに至れり、亦看版書といふもの、商人の店前なる障子行灯お張更、その需に応じて数個字お題する事、予が弱年の比までは聞も及ざりし事也、これらはわきて便宜の技なれば、のち〳〵までも行はるべし、亦挑丁入といふものお売あるくも、十年以来の事也かし、挑丁(ちやうちん)へ銅の〓お著ることは、正保年間より起ると、武家故事要略にいへり、磁器の焼継せんとて、巷路お糶あるくことも、二十年以来の事也、継漆などいふものにて継たりしに比れば、便利にして大によし、婦女子の髪お結ぶ事なども、予が幼稚き比は小頭坐お入れて、根おひとつにして、鬢と髱おかき出し、髱入(つといれ)といふものお入れて髱お長くしたれど、今のごとく鬢挿といふものはなかりき、その後髪の結ざま大に変りて、少女も老女も、鬢と髱お別にとりて、紙張なる髷の形したるもの、髱の形したる物お入れ、市中の女子は前髪お短くして、刷毛の如く上へかきあげておく事になりつ、衣裳に袖口かくる事、東にてはせざりしに、寛永年間より良賤これおすといひ伝たり、それも明和年間までは、袖口お太くして丸く括りたるに、今は綿お薄くして括ることおせず、銫といふものも、寛文年間までなかりしとぞ、和名かんなとは、かきなぐる義なるべし、吹革(ふいご)といふものも、元禄年間までは罕(まれ)なりしにや、元禄三年七月に開板したりし、人倫訓蒙円彙に見えたる鍋の鋳かけは、火吹竹にて火お吹おこしており、観世紙よりは、又三郎はじめたりと、西鶴が男色大鑑にいへり、かばかりの物も、むかしの人は、せざりけん、紙お漉事のまれなればなるべし、縮紙檀紙は、平人の用ふべきにあらず、伊豆の修善寺紙立野の紙なども又しか也、いにしへは貴も賤も陸奥紙おのみ用ひたりし、かくまでに物乏しからぬおん時にうまれあひたりけるは、いと有がたき洪福ならずや、時に筆硯お置てもて遺忘に備ふ、ここに漏せるも火あるべし、