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安房概志

海防 当国の形勢たる〈〇中略〉所謂天険の地なり、〈室町氏の時、安房国お指して、小嚢(こふくろ)国と雲、言は他邦出入するの道路嶮隘峡絶、一夫是お守て、万夫過ること能はず嚢の口お括するが如し〉、故に古来の英雄、一敗地に塗るの後、逃て当国に入る時は、敵人之お追に及ばず、将軍頼朝、里見義実の如き是なり、其勢守に利あつて攻に利あらず、然れども三面に海お帯るお以て、海寇の預備なくんばあるべからず、光孝実録曰、仁和二年八月四日、勅令安房上総等国重警不虞、註曰東南海寇の来侵んとする、陰陽寮の占兆あるお以てなり、里見氏の時に及て、小田原北条氏の船兵屡渡海して、海岸の村落お抱掠す、依て海岸防御の令お出せり、里見氏軍令条に、南洲崎より北明金の崎まで、処々に遠見番所お置き、これに金太鼔お設置、変あるに臨み、是お擊鳴すべし、其声お聞付、近辺の百姓町人共、家財お地に埋め、老人妻子は山へ蔵すべし、何者に限らず、走来り敵お防に於て、厚き恩賞たるべきものなりとあり、是は模見氏相州の北条に相対しての防御なり、我神祖建橐以来、海内承平なりといへども、猶深慮あつて、相模及び当国は格別咽喉の形勢たるによつて、文化七庚午二月廿六日、松平越中守定信、及び松平金之助〈後肥後守客衆〉幼年なるに依て、名代保科能登守正徳お営中に召して、異国船渡来防御のため、相模国浦賀、及び安房上総両国の浦浦に砲台お設けられ、両侯に引請仰付られたり、後文政壬午三月両侯御免あり、浦賀御備場は、浦賀奉行の掛となり、房総は文武の才能ある者お撰び、御代官に命ぜられ、専ら防御のことお委任せらる、天保十四年八月四日、松平下総守房総の海防お命ぜらる、後弘化四年、松平肥後守に命ぜられ、上総富津に戍士お置かる可き由なり、因て下総侯は富津より移り、当国北条に於て、新に陣屋お取立て、猶又処々の海岸に砲台お築かる、近隣の諸侯、変あるに臨て、之お救援すべきの由なり、是は皇国全体の防御にして、治に処て武お忘ざるの聖慮より出て、南蛮西戎のはて迄も、我邦如此の形勢に由て、厳重の備あることお知り、窺覦の念お援に断絶し、蒼海一点の塵お揚ず、万民枕お千歳に高するも亦宜なる哉、