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古事記伝
二十六
定東之淡水門、東は阿豆麻(あづま)と訓べし、〈阿豆麻てふ名は、倭建命の後に始まりつれど、此はなほ後の伝言なればなり、〉淡(あは)は安房国なり、〈東之と雲は、四国の阿波と分むためなり、〇中略〉書紀に五十三年秋八月、天皇詔群卿曰、朕顧愛子、何日止乎、翼欲巡狩小碓王所平之国、是月乗輿幸伊勢、転入東海、冬十月至上総国、従海路渡淡水門雲々、そも〳〵此時淡はいまだ一国の名には非ず、上総国の内にて、其水門(みなと)と雲は、安房と相模国御浦郡の御崎〈今も御崎と雲〉との間お、大海より入海に入る海門(うなど)なり、〈此入海は、東は上総、西は武蔵、北は下総にて包めり、淡水門は、其南方の口なり、さて今天皇の、此水門お渡坐しとあるは、還り上坐道にて、上総より相模へ渡り賜ふなり、〉さて此に定と雲は、天皇の渡坐しにつきて、始めて此名お定賜へりとにや、又始めて此海路の開けしお雲にもあるべし、