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里見代々記
抑安房国に里見の打入、十代相続国お保給ふ、其元由お尋るに、人皇五十六代清和天皇九代の後胤新田大炊助義重の三男、里見太郎の末孫、足利党の末葉基氏の嫡男家基、其子足利刑部大輔義実と申せしは、安房里見元祖、〈〇中略〉義実は父の諫に任て、木曾左馬允氏元、堀内蔵人貞行お随身し、三浦の方へ落給ひける、両人に向て申されけるは、今は結城も落城せり、後日の用意になる事もやならん、先三浦お差置て、是より安房国へ渡らんとて、海人お頼て浜地に下り給ひける、海人承はり急ぎ船お浮ければ、折節順風吹送り、白浜といふ在所に著にけり、其比安房国には四人の郡主お立置れける、平群には安西式部大輔勝峯、勝山に住す、安房郡には金余左衛門介景春、神余に住す、朝夷郡には丸右近介元俊、石堂谷に住す、長狭郡には東条左衛門督重永、永泉に住す、彼等四人互に心お示し合せ、分内お守り居りける、然るに金余が家臣に山下左衛門と雲ふ者あり、主君景春お討亡し、己郡主と押成りて、郡おも山下郡と名お改、放逸無懺に働けり、丸安西は是お見て、彼が無道国の汚也とて示合、山下お討て捨、郡内お分取、丸安西と口論出来り、又俄に戦起りて、暫く挑たりしが、安西終に打勝たり、丸は此時滅亡せり、援に金余が浪人共、皆一同に雲合、義実公お大将に頼たてまつり、奉公申ばやといふ、〈〇中略〉御出馬かくれなければ、勝山安西式部大輔勝峯は、急ぎ大勢お引率し、滝田原に出張して待かけたりしが、いかゞ思ひたりけん、甲お脱ぎ弓弦おはづして、〈〇中略〉自今似後御手に属せんため、馳参して候と慎て申ける、〈〇中略〉東条左衛門重永は、上総の国大滝の正木弾正と一味して、金山の城に楯籠、文安二年癸巳六月八日に合戦初り、明る九日に落城せり、東条重永は自害せり、正木弾正は大滝お指て引退く、同三年甲午正月廿七日、大滝の正木が城お押取巻、昼夜攻戦、終に城方敗れて、正木降参したりける、夫より白浜へ引帰り、暫く事静になりければ、義実公の給ひけるは、我十九歳にて当国へ渡り、才五六年も旅住せし所に、不思議の合戦起りしより、当国お切随ひ、今は上総迄手に入たり、可然者の娘お娶らばやと仰ける、安西承、上総国真里谷某が息女可然候とて、追付迎取、御前にぞ定たり、斯て御添合睦かりければ、御男子誕生まし〳〵ける、大将御悦かぎりなく、千歳お祝ひ春若丸と名付給ふ、月日来り過行程に、今年十五歳にならせ給ふ、御元服の御祝ありけり、義実公の給ひけるは、我足利お名乗ども、元根は新田の三男里見也、其子足利なれば、我父家基末葉故、足利お名乗給ひしぞかし、然ば先祖の氏里見お名乗ものなし、今日より女元服せば、里見お名乗べしとて、里見刑部少輔義成とぞ名付給ひけり、〈〇中略〉永正二年乙丑四月十五日、生命五十八歳にて薨給ける、安房の里見の初祖は此殿にぞ在ける、