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安房概志

郡名 安房郡〈和名抄曰、阿八、〉 南洲崎に起て、北山名村に距り、平群と郡お接し、西浜は湊八幡の辺より海お環して、東南滝口村に終る、其正東全く朝夷郡と接壌せり、此郡お安房と称することは、神武天皇の朝に、阿波斎部氏天富命に随従して来り、麻穀お樹芸せんため、居住ありし地なれば、あはの辞に因て、安房郡と名く、古語拾遺に、阿波忌部所居、便名安房郡、天富命即於其地立太玉命社、故其神戸有斎部氏とみゆ、又当郡お指して【神郡】(かみのほこり)と称せり、式部式曰、安房郡と号して神郡となす、〈〇中略〉中古安房郡の名お改め山下郡(○○○)と称せしことあり、里見志に神余(かむまり)太郎満孝(みつたか)の臣に、山下佐衛門景胤〈一本宣兼に作る〉とて、悪逆なるものあり、或日酒お主人満孝に献じて大に酔しめ、其虚に乗じて、刀お抜て首お取り、終に其地お押領し、安房郡お改て、私に山下郡と号す、然ども臣として君お殺せる、その簒奪の罪お悪んで、時人之お乏して【下郡】(しもつこほり)と呼たりと、里見氏の世に至て、猶山下郡お以て称せしにや、其頃の宝珠院の旧書記には、山下郡某村と雲ことみえたり、