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日本地誌提要
二十一下総
沿革 古へ国府お葛飾郡に置、〈今の国府の台村是なり〉承平中、高望王の子良兼、介お以て州事お知る、従子将門〈良将の子〉豊田郡に居り、猖獗制お受けず、天慶二年、良兼卒す、将門遂に謀反し、猿島郡庁南お以て京師に擬し、偽宮お営して八州お扇動し、〈本州、及上総、安房、武蔵、相模、上野、下野、常陸、〉明年誅に伏す、後将門の従姪忠常、〈良文の孫、忠頼の子、〉州の介に任じ、海上郡に居り、長元元年乱お作し、四年にして法に伏す、後其子常将お宥して介に任じ、始て千葉城に居り、子孫任お襲ぎ千葉と称す、玄孫常胤、結城朝光と源頼朝に従ひ、常胤本州守護となり、子孫に伝へ、後上総の北境お併有す、朝光治承の末、結城郡お領し、結城に居り、後常陸真壁郡、下野芳賀郡お兼領す、建武中興、足利尊氏お守護とす、尊氏の反する、千葉貞胤〈常胤七世の孫〉結城直朝、〈朝光六世の孫〉皆之に属す、千葉氏、介お以て守護お兼ぬる故の如し、鎌倉管領足利持氏の亡ぶる、直朝の曾孫氏朝、其遺孤お奉じて結城に拠る、上杉氏将軍義教の令お以て来り伐ち、城陥て氏朝自尽、結城氏是に於て中斬す、宝徳の初、持氏の子成(しげ)氏管領となり、氏朝の遺胤成(しげ)朝おして結城に復帰せしむ、既にして成氏其執事両上杉氏お伐つ、〓たずして退て古河お保つ、時に貞胤の玄孫胤直、上杉氏に党す、其叔父康胤〈馬加(まくはり)城主〉胤直お襲殺し、千葉城に拠て、印幡以東の地お領し、〈臼井、佐倉、多古、小見川、皆領邑なり、〉結城氏と倶に成氏お翼戴し関東八館、皆古河に覲す、既にして上杉氏、胤直が従子実胤お胤直の後とし、武蔵石浜に居しむ、千葉氏是より両宗となり、争戦やまず、〈石浜の千葉後北条氏に属し、天正の末祀絶ゆ、〉天文中、里見氏本州お侵して東境お略取す、千葉結城漸く衰へて、自立する能はず、遂に北条氏に属す、二十三年、北条氏康成氏の曾孫晴氏お関宿に幽し、其子義氏おして僅に古河に食しむ、〈義氏子なし、小弓(おゆみ)義明の孫国朝嗣となる、慶長中其、嗣頼氏邑お下野に受く、喜連川氏是なり、〉天正十八年、豊臣氏東征、成朝の玄孫晴朝、欵お納れ封お全し、徳川氏の庶子秀康お養て嗣とす、康胤九世の孫重胤、北条氏に従て小田原にあり、豊臣氏尽く其封お奪ひ、千葉氏亡ぶ、既にして徳川氏関東に遷る、小笠原秀政お古河に、〈後土井利里〉松平康元お関宿に、〈後久世重之〉久能宗能お佐倉に〈後堀田正亮〉封じ、慶長中、秀康 越前に徙し、結城城お廃す、其後州内封お受る者、生実(おひみ)〈森川重俊〉高岡〈井上政重〉小見川、〈内田正信〉結城、〈水野勝長〉多古、〈松平勝以(ゆき)〉凡て八藩、王政革新、下野の高徳藩〈戸田忠至〉お会我野に徙す、既にして皆改て県とし、尋て之お併せて印幡県お置、又改て千葉県お置き上総安房お兼治す、