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下総国旧事考
七郡郷
葛飾郡〈和名抄訓加止志加〉 和名抄訓加止志加とあれど、万葉集〈十四〉に、可豆思加、又加豆思賀とありて、今も土人かづしかと呼に拠ば、是正訓なるべし、〈按、略解に、かつのつは濁音にて、かづしかと訓べしと雲、土人の音もかなへり、名義は葛繁にて、此地武蔵野の東に在て、原野広く、葛のいと繁りしよりの名なるべし、回国雑記に、かくて郡の山お出で行く道に、葛のいと繁く侍りけるお見て、雲雲とも見ゆ、且郡中に葛生村あるにても、思やらるゝ也、伴信友雲、高橋氏文に、景行天皇五十三年入東国、冬十月到上総国安房浮島宮、天皇葛飾野毛(毛は爾の誤なるべし)猟し玉ふ、本朝月令に、此事お載て、天皇五十七年とす、書紀に拠ば、五十三年お是とすべし、葛飾野は今も小金原とて、広き原野也、和名抄の頃に至ても、郡中僅六郷なれば、其広漠の原野なりしこと想像すべし、〉本郡は、抄にも、国府在葛飾郡と見えて、一国の上游にありて、府治の地なりし也、〈今地勢お考れば、国府は栗原の郷の内なるべし、〉葛東、葛西の称あり、葛東は下総に属し、葛西は今武蔵に属せり、