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下総国旧事考
七郡郷
匝瑳郡〈和名抄傍訓さふさ〉 名義は、或書に狭麻の義とす、猶考ふべし、〈(中略)伊能穎則雲、郡お建たるは、孝徳の御世にて、類史に、昔難波朝廷始置郡とあれば、続後紀の文にのみ依りて、此時郡にせられしと雲べからず、按ずるに小事大連、当昔匝瑳国造が県主になりしお、後郡県の制に改められしとき、国県は皆国郡となりしお、続後紀は後の称お前へめぐらして、書し者なるべし、小事連のこと、国造本紀に漏れたり、〉此に拠るときは、物部小事大連より、始て建し郡なり、是の小事の大連は、旧事紀〈天孫本紀〉に、弟宇麻志麻治命十二世孫、物部木蓮子連公〈布都久留大連公の子〉此連公石上広高宮〈仁賢天皇〉御宇天皇御世、為大連公雲雲、弟物部小事連公〈志陀連、柴垣連、田井連等祖、〉とあり、十三世孫物部麻佐良連公、〈木連子大連之子〉此連公伯瀬列城宮〈武烈天皇〉御宇天皇御世為大連とあり、彼此推考するに、仁賢天皇が、武烈天皇の朝に仕へし人と思はる、其事蹟古事記、日本紀等に漏れたれど、続後紀の此段にて詳に知らるヽ也、〈志陀は、延佳本標註には、匝瑳の誤りなるべしと雲へり、〉此郡の建ざる以前は、海上の国造の部内にて有りしなるべし、