[p.1062][p.1063]
下総国旧事考
八郡郷
香取郡〈和名抄訓加止里〉 名義は、万葉集に、〈巻十一八丁〉大船の香取の海に、慍下(いかりおろし)、何有人(いかなるひとか)、物不念有(ものおもはざらむ)、と雲歌によりて、楫取の義とし、応安中海夫文書に、常陸下総の津々浦々、古来より香取神宮の所務なるお証とし、〈海夫のこと別に言ふべし〉或は続千載集藤原定家卿の、夏衣香取の浦のうたヽねに波のよる〳〵かよう秋風、と雲歌によりて、縑(かた)織(おり)の義とし、〈縑は、衣なり、生衣お雲とあり、又水色のすヾしなりとも雲へり、〉傍近に、折幡、幡鉾、小見〈和名抄麻績郷〉など雲村、皆縑に因あるお証とし、〈折幡お織機の義とするはあたらず、皇国の語例は、体言お先とし用言お後とするが常なり、折播は本障(おり)畑のあるより、負はせし名なるべし、幡鉾は畠発塊なるべし、地方にて新墾の地おほつくと雲、又荒久と雲は、新発塊のことなり、其近隣にまた、虫畠など雲村あり、此は文字の如くなるべし、〉或は神集(かむづま)りの義とし、〈万葉五に、うなはらのへにもおきにもかむづまりうしはきいますもろもろの大神たち、雲々の歌もあり、〉 高天原の故事に取れるなりと雲、〈此説甚だ非なり、上古の神と雲は、即ち其土地の守なるお、神変不可思議の鬼神の如く思へるより、言出たる陋説なり、〇中略〉上古物お結ぶに葛お用ひ、其葛お採る人お、葛取と雲へり、観古雑帖に載たる法隆寺三倉古書中に、宝字六年正月雲雲、葛取雇夫二人、功廿文、人別十文と見えたり、同年比、造近江石山寺司の用途文書に、黒葛幾斤と雲ことも見えたれば、葛取の義にて、其事お業とする人、住めるゆえの地名なるにや、本州に葛飾郡あり、香取地方に葛(つな)原牧あり、〈牧は庄と異なれど、実はおなじさまなり、香取文書に見ゆ、因に雲、葛原牧は、京師葛原より取れるにや、平氏の祖は葛原親王より出づ、其庄園などのあるにより、千葉氏も下総に蔓衍することなりしにや、藤原新田と雲地もあり、ふぢもかづらも、葛の字の訓なり、播磨国明石郡葛江は、(布知衣)讃岐国多度郡葛原は、(加都良波良)豊前国宇佐郡葛原等あり、証とすべし、〉 旧事紀天孫本紀に、船長同共率領梶取等天降供奉、梶取阿刀連等祖天麻良、〈古老曰、大禰宜の分家に、かいとりと雲神官あり、今は梶取と書くよし也、〉船子倭鍛冶等祖天真浦とあり、前にあげたる海夫文書等によりて考れば、梶取等の住居せし地よりの名なるべし、上古経津主命、海門お控制し、それゆえ、北浦、西浦に部下の船子等、多く住して、風魚非常の警に備へしものと見ゆ、〈今霞浦北辺にも、南辺にも、船子村あり、是その部曲の住せし地なるべし、〉