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下総国旧事考
九郡郷
豊田郡〈和名抄訓止与太〉 岡田郡〈豊田岡田の二郡は、元岡田郡なりしお、延喜四年に豊田郡に改められ、今代貞享三年に豊田郡の内絹川の西十け村お割きて、岡田郡お建しより、二郡分立する事とはなれり、〉 名義は、郡中に豊田村あり、これより出たる名ならん、廃建は民部式頭註に、延喜四年十二月十日〈拾芥抄延喜廿年とす、神名帳考証土代に雲、秘釈には延喜四年三月十日改とあり、〉改下総国岡田郡為豊田郡とあり、是より岡田郡全く廃せしと見えて、民部式、和名類聚抄共に載せず、たヾ神名帳に岡田郡お載す、考異雲、式の撰集、延喜五年に始り延長五年に成る、藤原時平、忠平等前後総裁お異にして、廿三年にし成功せし書なれば、神名帳は元のまヽお書き、〈是は神社に付てのことなれば、後人の錯惑お生ぜんかと、筆者の深き意ありて、わざと旧郡おあげしなるべし、〉民部省条には、今名お書せし故に、一書の内支互おなせしならむと、猶大須本将門記に載る所の地名お撿するに、豊田郡大房と雲、豊田郡鎌輪〈今岡田郡に鎌庭村あり、是なるべし、〉と雲、岡田郡お載せず、将門記は天慶に成りし書なれば延長五年お去ること、僅に十余年なり、然るに絶て岡田郡の名見えざれば、全く廃せしと見ゆ、其後岡田郡お建たるは、貞享三年なりと雲、 四至、今のさまは東は常陸国筑波郡お限り小貝川これお界し、南は相馬郡に接し、西は岡田郡に対し、鬼怒川これお界し、結城郡に接し、北は常陸国真壁郡に対し、糸繰川これお界し〈即毛野川の故道なり〉統村七十七、正徳中所撿括三万九千三百〇三石余、〈〇下略〉