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郡郷考

駅伝馬 按、駅路の次第は、先下総於賦駅より〈按、於賦は相馬郡大井村なるべしと雲ふ、〉、本国河内郡に入り、〈按、河内郡のみ伝馬あり、且行程の便に就て雲ふ、〉信太郡稲敷、〈按、今八代村なり、説其郡に在り、〉朝夷〈按、根本村地名お遺せり、〉二郷お歴て、榎浦の上流お渡り、榛谷(はんかへ)駅に至る、〈按、今羽賀村なり、〉国界より此駅まで三里半、〈按、大井より国界まで一里半なるべし、〉榛谷より曾禰駅に至る十四里、〈按、行方郡手賀村に地名存せり、厩牧令雲、凡諸道須置駅者、毎卅里置一駅、若地勢阻険、及無水草処、随便安置、不限里数、これ駅お置く定法なれば、今の五里程にて一駅お建べき事なるに、かく隔遠なるは、其間必一駅お脱せしなるべし、兵部式諸国の駅誤脱少からず、或雲、茨城郡茨城郷国府ありて、榛谷より九里、平坦の路なれば式に載ざる一駅は国府にて、一駅お脱せるにはあらず、国府より曾禰までは今五里にて、恰好の路なりと、されど兵部式美濃不破郡不破、上野群馬郡群馬の類は、皆国府の地なるお、駅馬の条に出せるお見れば、独本国のみ茨城の名お載ざるの理なし、伝説に、昔は信太郡と茨城郡との間なる流海おわたりて官道なりと雲えるに付て思ふに、信太郡島津郷の対岸は、茨城郡大津郷なり、島津大津ともに舟船の集れる地名なれば、もしや此二郷の内、何れか駅家にはあらざりしか、且島津の属村なるべき大山村に、駅長が宅止と覚しくて、長者屋敷もあり、又国府あたりの伝説には、古の官道は、府中の地より南にて、三村の方より中津川にかゝりしなどもいふに因て思うに、是又大津の方よりの便路なり、厩牧令に、凡水駅不配馬処、量閑繁駅別置船四隻とありて、兵部式にも其地は、船数おも載たれども、それは全く水駅舟行の地と見えたり、此地は榛谷より陸路三里島津に至り、舟にて半里の流海お渡り、大津に達すれば、大津より陸路曾禰に至るは十里余なるべし、船と馬とお兼ざれば往復すべからず、已に風土記にも、不隔江海之津済とありて、陸地連続の故に、国名ともなりし由なるに、陸路に少しの迂回ありとて、津済に就けると雲はんもいかゞ、況伝説に付て思ひよるのみにして、其徴あるにもあらず、但駅長お長者と称〉〈し、古駅には必長者屋敷ある事は、信太郡に詳に載す、〉曾禰より安侯駅に至る八里、〈按、今安古村なり、〉安侯より河内駅に至る三里、〈按、上中河内村、〉河内より山程は雄薩駅に至る四里、〈按、今大里村中世小里、〉雄薩より山田に至る二里半、〈按、山田今松平村其名存せり、説久慈郡に詳なり、〉山田より陸奥白河郡高野駅に至る十二里、〈按、国界徳田村まで八里、徳田より高野まて四里、高野は今棚倉なり、〉河内より瀕海は田後駅に至る九里、〈按、今田尻村なり、〉田後より蓋陸奥長有駅に達す、〈按、長有は其地詳ならず、田後より国界勿来関までは七里なるべし、〉是弘仁三年〈後紀〉以来の駅路なり、〈按、本国は平坦の地多き故にや、太氏卅里一駅の制よりは路程遠し、〉又按、風土記に載たる駅は、榎浦、〈式、榛谷同地なり、〉曾禰、〈式同〉板来、〈式、無和名抄、坂に作る誤、〉河内、〈式同〉助川、藻島、平津、〈式並無〉巨神、〈仙覚万葉抄所引風土記、和名抄には郷名なり、式無、〉凡八所なり、其廃置ありし事は、後紀弘仁三年十月、廃常陸国安侯、河内、助川、藻島、棚橋六駅、更建小田雄薩、田後等三駅、〈按、弘仁元年、文室綿麻呂陸奥出羽按察使となり、二年三月、爾薩体幣伊二村の蝦夷お征するに因て、其四月に機急お告る為に、陸奥の内に於て海道十駅お廃し、更に本国に通ずる道にて、長有高野二駅お置く、此廃せし十駅は、続紀養老元年に、岩城国お置たる時、其国中に建たる駅にて、其国お廃しては、要なき故なり、扠其警に付て、又今年本国の駅に及べり、されど上にも挙し如く、安侯、河内の二駅お廃して、其れに代る地お置ざるは何如なる故にか、後其緊要なるお以て復せし事は、兵部式にて知られたり、助川、藻島は、風土記に出たり、棚橋或棚島に作る、其地詳ならず、和名抄久慈郡楊島あり、字形稍似たれば、同地にてはなきや、楊島亦詳ならず、或雲、其郡折橋と雲ふ地あり、棚橋お拆橋と書たるより、後折に訛りて訓おも、おりと攺めしなるべし、小田は式、及び風土記に拠ば、山田の誤なり、然るに近年式考異に、式お以て誤とせしは、却て非なり、猶久慈郡に詳に弁ぜり、助川藻島お廃して二駅の間なる田後の一駅とせしは、煩お省ける事知るべし、〉六年十二月廃常陸国板来駅、〈按、板来駅は、曾禰より鹿島に赴けるの用のみなれば、廃せしなるべし、式に曾禰は他駅と異にして、小路の常数馬五匹お置きたるは、此駅お廃せし故に、其用おも兼たるなるべし、〉平津巨神の廃せしは、史に漏たるお以て、其年代知るに由なし、