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新編常陸国誌
六十四行路
海道 海道は東海の大道なり、伊賀伊勢以東本国に至るまで十五箇国、皆東海道の域に属す、故に往来の大道、これお海道と称す、古代石背石城の国、いまだ陸奥に隷せざりし間は、東海道に属す、故に今に至て、石城、石瀬、菊多、岩崎等の四郡、呼で海道四郡と称す、陸奥国中に海道の称ありしことは、日本後紀に、弘仁二年四月乙酉、廃陸奥海道十駅、更於通常陸道、置長有高野二駅と見えたるにてたしかなり、海道の十駅といへるは、本国多珂郡奈古曾関お越て、菊多郡に入しより、海道四郡と称せる内の駅家おいへり、更に長有高野の二駅お置といへるは、白河郡の内にて、本郡久慈郡に通ずる道なり、後三年合戦絵詞、清原氏系図等に、海道小太郎成衡と雲ふ人あり、岩城岩崎辺の著姓なり、海道四郡と雲へることは、旅宿問答、鎌倉大草紙等に見えたり、又白河結城文書には、東海道宇多庄など雲ふもの往々出たり、宇多庄は陸奥国の内なり、今本国の内にて海道と称すべきは、江戸より水戸に至るの道なり、然れども古代とは道次の変ぜし所も多ければ、全くの海道にはあらざれども、今に於ては海道と称すべきものなり、又水戸より岩城に至るの道も、古の海道にてありながら、往還駅路の沿革亦少からず、〈原本頭書、多珂郡の大窪お、海道と雲ひしこと、大塚伝記にあり、〉依て先古の海道の駅次お考へて、さて後に当今の路程お註す、凡古の里数は三千六百歩お一里とす、俗間に所謂六町一里なり、天正文禄の際、豊臣太閤の制により、なべて三十六町お一里とす、神祖又其法に准じて一里塚お築く、これより後悉く是制に従ふ、辺鄙の俗なお古にならひて、里数の長短同じからざるものは、天下の法にあらず、依て今卅六町一里の制による、但古代の路程お論ずるものは古の法に従ふ、〈◯中略〉 陸路 補、今の道路は茨城郡水戸お起程の地と定て、東南に向ひ、下総河原代村に達するお、江戸海道と雲ひ、北方に走て、陸奥大垬村に出るお、棚倉海道と唱へ、北に進で少く東に向ひ、陸奥関田村に至るお、岩城相馬海道と呼ぶ、すべて之お大道となす、又水戸より西北に走て、陸奥南郷に達するお、南郷海道と呼び、南郷海道の西に当て下野矢又村に出るお、那須海道と雲ひ、西方に進み少く北に向て、下野藍田村に至るお、茂木宇都宮海道と曰ひ、正西に向て下総結城駅に通ずるお、結城海道と称し、結城海道江戸海道の中間に在りて、下総瀬戸井村に達するお、瀬戸井海道と唱へ、東南に進で下総飯沼村に至るお、飯沼海道と雲ふすべてこの五路お中道と称す、