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新編常陸国誌
六十四行路
自国府至奥州駅程廃置之図 上古駅路 補、孝徳帝の時、天下の国郡お分ち、駅路おも定められしことは、諸書お参考して分明なれば、更に雲べきことなし、さて其頃より以後、常陸の大道は、下総の於賦駅〈今の大森駅なり、按、風土記によるに、景行天皇行幸の路も、大森辺より信太郡にいらせ玉ひしと見ゆ、関東川々図にて見るに、大森より利根川お渡り、信太郡大徳辺より榛谷駅にいたりし便路と見ゆ、〉より信太郡に入り、〈大徳村の辺お過ぎて〉榎浦駅に至り、〈榎浦駅、今の波賀君山の辺なり、延喜式に榛谷駅と雲へるは、即是なり、今に鎌倉道と雲あり、その辺より仲村辺に出たりと見ゆ、古事あり、〉それより国府に達し、〈国府の辺にては、土田村にて馬おつぎしと見えたり、駅家の古蹟あり、されど延喜式にこの駅なし、思ふに国府の役として、別に駅おば置ざりしにや、何れにも国府より馬お出さヾれば、往来なり難きさまなり、〉こヽより両路となる、一安侯駅に通じ、〈大谷村の辺お通れり、佐竹義政大矢橋に至りしこと其証なり、〉一は曾尼駅に通ず、さて茨城郡安侯より〈安侯は今の安古なり、この間加倉井の辺おすぎて通りしなり、〉那賀郡河内駅に至り、〈河内は今の中河内也〉それより久慈郡助河駅に至り、〈助河駅は今の助川〉それより陸奥に通ぜり、又行方郡曾尼駅より両路となりて、一は陸奥の海道となり、一は鹿島社の道となる、其陸奥の道は曾尼駅より、〈曾尼は今の行方郡玉造辺なり、駅家跡今にあり、〉石橋駅、古那珂郡今茨城、〈今の東前と見えたり、古は遠厩とかけり、(石橋より藻島の間遠き故に、遠厩の名あるなり)厩の名あるお以て知べし、且曾尼よりこヽに至るの間に、古の往来の古跡あり、是より前は平津お以て駅とせしお、こヽに移せしと見ゆ、平津は平戸なり、東前の東数里にあり、〉に至り、それより久慈郡助川駅に至り、それより〈この道は那珂河お渡りて、勝倉村松おへて、石名坂に至りしと見えたり、心車抄に村松山勧進の疏あり、それに東海飜白浪者、通夜洗于旅人之夢、西湖湛縁水者、終日染于行客之服とあり、これにより古来往来なるお知るべし、村松の虚空蔵の世に知られしも、古の大道にて、往来の人多かりし故なり、浅草の観音などの世に知られしに同じ、〉藻島駅〈こヽより両路となる〉に至り、〈今伊師三け村の地なり〉さて多珂郡棚橋駅おへて、〈棚橋今の折橋なるべし、拆橋か、〉さて南の関より陸奥に入り、一方は海辺より奈古曾関より陸奥には入りたり、又鹿島の道は、曾尼駅より板久駅に至り、夫より鹿島に至れり、鹿島より下総へ越る時は、この板久より下総へ通ぜしと見えたり、 国府 安侯〈弘仁廃〉 河内〈同上〉 助川〈同上、今の小菅なり、 奥州〉 曾禰 石橋〈弘仁廃、今の遠厩辺、こヽお遠厩と雲は、藻島の間に遠ければなり、もとは平津なりしおこヽへ移す、〉 藻島〈弘仁廃〉 棚橋〈同上伊師町〈古のめしま〉より五里程なれば、今の神岡駅の辺にあたる、〉 板久 〈奥州〉 弘仁中駅路 補、上に雲る如く定められたりしに、弘仁三年十月に至て駅の数お減ぜられ、安侯、河内、石橋、助川、藻島、棚橋の六駅お廃し、〈安侯は茨城郡、河内石橋は那珂郡、助川藻島棚橋は多珂郡なり、〉山田、雄薩、田後の三駅お置れたり、其往来のついでは、国府より曾禰駅に達し、〈もとは国府より両方へ分れしに、安侯お廃せし故に、この一路となれり〉曾禰より両路となり、一路は旧の如く板久駅に通じて鹿島に至りしなり、然るに同六年十二月に板久駅おば廃せしかば、曾禰より直に鹿島へ通ぜしなり、一路は曾禰より山田に至り〈山田は今の那珂郡勝倉と見えたり、長〉〈者の宅止存す、且この村の西数里に鳥喰村あり、そこに山田氏のものあり、旧族にて著姓なり、もとこの地辺より出たるなるべし、〉こヽにて両路となる、一は多珂郡田後駅に達し、〈田後は今の田尻也〉さて奈古曾関お経て陸奥に入れり、一は山田より〈この山田より雄薩に至る間に酒出村あり、其地に駒形明神あり、神体馬形也と雲は、駒形社は上古必大道の路傍に祭れる神也、隣村額田にも駒形と字する地ありて、先年陶にて作れる馬形おほり出せり、これも近接の地なれば、往古少しく、道のかはれることもありし故に、此にも有べし、〉久慈郡雄薩駅〈今の大里也、長者の宅止存す、〉に至り、明神坂お越て陸奥に入りたり、〈山田駅は、石橋駅の代りに立られしなれど、もとは一路なりしお、この時両路となりし故に、石橋より少しく北によせられ、雄薩は助川の旧駅よりは南によせられしなり、これ全く山田の駅馬の煩労お省かれし也、〉 国府 曾禰 山田〈今の勝倉辺、已前より田後の間お近くせしむ、一駅にて二駅へ送る故なり、〉 雄薩 〈奥州〉 鹿島 田後 〈奥州〉 延喜中駅路 補上件の如く新制ありしが、猶不便なりければにや、安侯河内の二駅おば旧に復せられ、〈延喜式にみゆ〉更に国府より両路に分るヽことヽなりし也、是より後は駅家お改められしこと聞えず鎌倉将軍の世お終るまでは、諸国の国司もありて、目代等の往来もたえず、諸国の奉幣使なども旧のさまにて、当国鹿島使も下りて、皇威衰へながらも、よろづ昔の形はありければ、大道のかはれることもなかりし也、〈鏑矢宮方記の文書の、相馬郡界お雲しにも、東は東海大道に限るとあり、陸奥海道四郡の地お東海道と雲しこと相馬文書に見ゆ、又光俊朝臣東国下向の道も、旧古のさまなり、鹿島使の鎌倉の季世のころまで下向せしことは、記にあり、〉 国府 安侯 河内 雄薩 〈奥州〉 曾禰 山田 田後 〈奥州〉 鹿島