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日本地誌提要
二十二常陸
沿革 古へ国府お茨城郡に置、〈府中是なり、今新治郡に属し、石岡と雲、〉天長中、親王の任国となし、特に太守と称す、平治中、平清盛奏請して、佐竹忠義お州の介に任じ、本州の事お管せしめ、久慈郡太田城に居る、治承の末、源頼朝兵お遣て忠義お擊ち之お殺す、忠義の従子秀義、陸奥に奔る、頼朝北伐の日、秀義来帰し、旧邑に復するお得たり、頼朝又小田知家に筑波郡お授け、〈小田城に〉〈治す〉建久四年、大掾義幹(よしもと)の地〈茨城新治鹿島行方四郡〉お収て、其支族資幹に与へ、府中城に治す、〈大掾氏は、平国香大掾たるより世襲、義幹は其九世の孫なり、〉佐竹小田二氏交互州の介に任じ、州事お知る、建武中興、足利尊氏お守護とす、既にして佐竹貞義、〈秀義五世の孫〉尊氏の反に応じ、大掾高幹、〈資幹七世の孫〉小田治久、〈知家七世の孫〉官軍に属し、後皆尊氏に降る、関東管領足利氏の八館の列お定むる、三氏皆其班に入る、応永の末、江戸通房〈初那珂郡に居り、後茨城郡川和田城に居る、〉大掾氏お襲ひ、其水戸城お取り、勢威頗る振ひ、爾後大掾氏日に衰へ、疆域大に蹴まる、〈是の時佐竹氏、久慈、多賀、那珂、茨城四郡に連り、小田氏、筑波新治、河内、鹿島、行方、真壁、信太七郡五十三城お擁す、〉天正二年、小田氏治〈治久八世の孫〉上杉の故臣太田資正と戦ひ、城陥て自尽、小田氏亡ぶ、〈知家より治久に至る十四世〉独佐竹義重、兵勢頗る盛、十八年、江戸重通〈通房六世の孫〉大掾浄幹〈高幹十世の孫〉お滅し、悉く全州お併せ、子義宣おして水戸城に居しめ、北条氏と相抗す、北条氏の亡ぶる、義宣欵お豊臣氏に送り、本州お領する故の如し、関原役畢り、徳川氏其封お削て出羽秋田に徙し、〈佐竹氏是に至て十九世〉第六子信吉お水戸に封ず、早夭して嗣なく、第十一子頼宣之に代り、其駿河に転ずるに及で、第十二子頼房お封す、〈三拾五万石〉其支封お府中、〈慶長六年、六郷政乗お封ず、元禄中、頼房の第五子頼隆封お受、〉宍戸〈頼房の第七子頼雄〉と雲、又松平信一お土浦に、〈後に土屋政直〉松平康重お笠間に、〈後に牧野貞通〉山口重政お牛久に封じ、寛永中、頼房の庶長子頼重封お下館に受け、尋て高松に移り、〈讃岐〉寛文中、増山正弥(みつ)代て封ぜらる、〈後に石川総茂〉其他谷田部、〈初下野茂木(もてき)細川興元〉下妻、〈井上正長〉麻生〈新荘直頼〉三藩お置、凡て十藩、王政革新、府中お改めて石岡と称し、志筑藩〈本堂親久〉お設、磐城の守山藩〈水戸の支封松平頼之〉松川に徙り、水戸の傅相中山信徴藩列に班し、〈松岡〉凡て十三藩、既にして皆改めて県とし、又廃して新治茨城二県お置、