[p.1098][p.1099][p.1100][p.1101]
新編常陸国誌

建置沿革 補〈◯中略〉文禄三年十月、石田治部少輔三成、豊臣家の命お受て当国お検地す、家臣藤林三右衛門等、縄入の奉行たり、〈鶴田氏所蔵水帳、佐竹氏所領検地目録、この時諸国大概検地のことあり、下総も藤林三右衛門奉行せしとみえて、香取大宮司が領地お役せる社人小〉〈林氏の蔵せる水帳にも藤林三右衛門とあり、〉所謂文禄の縄とは是也、〈当代記、続武家閑談、〉是時悉く庄郷の称お廃して、直に郡お以て村おすべしむ、〈佐竹家士知行目録〉又国産の租税お計るに、束の数お用ひず、丁段の数によらず、始めて石の数お用ふ、〈革島家譜、佐竹家士知行目録、〉本国の統数五十三万八石となる、〈検地帳、日本得名、〉十六郡お更め、古に復して十一郡とす、然れども久しく錯乱の境界お、俄に改定せられし故に、名は古に復すといへども、其境に至ては大に違へる地多し、所謂伊佐庄、及小栗保お以て真壁に属す、古の新治也、関庄下妻お河内郡に属す、然れどもこの地と本の河内との間に、真壁、筑波の両郡隔たるお以て、俗にこヽお西河内と称す、古の新治の地也、中世下妻の人、関、下妻、両庄お呼で河内と称するお以て、河内に属せるなり、其地絹川蚕養川の間にあり、下妻領にとりては、河西、河東、河内と三つに分てり、河西は絹川の西也、河東は蚕養川の東也、中郡庄お那珂郡に属す、然れども本の那珂郡と地界隔たるお以て、俗に西那珂と称す、古の新治なり、笠間庄お茨城郡に属す、古の新治也、田中庄お筑波に属す、過半は古の河内郡也、方穂庄お新治郡に属す、古の筑波郡也、信太庄東条庄は旧に准じて信太郡に復す、山庄お新治に属す、古の筑波郡也、南野庄お新治に属す、古の筑波茨城二郡の地也、佐谷郡お新治に属す、古の筑波也、北郡お新治に属す、古の茨城郡也、南郡河内滑川以南の地お新治に属す、古の茨城郡なり、今置く所の新治郡は、古の茨城筑波二郡の地にして、一村も旧郡の地なるはなし、旧郡の地は悉く西河内、西那珂、真壁、茨城等の地となるお以て也、宍戸庄、小鶴庄、及滑川以北の南郡、皆旧に准じて茨城郡に復す、当麻郡は鹿島に属す、古の行方郡也、宮田、宮崎、紅葉、大屋等の地、茨城に属す、古の鹿島郡也、行方郡は旧の如し、但当麻郷お鹿島に削られ、茨城の立花郷お過半とれるのみ也、然れどもこの立花は、古くより行方に属せり、今度割く所にあらず、那珂川以南、那珂西郡吉田庄等、なべて茨城に属す、古の那珂郡の地也、那珂川以北、久慈川以南の地、すべて那珂郡に属す、其半は古の本郡の地、半は古の久慈郡なり、中世称する処の久慈西、那珂東、佐都西、吉田庄、塩籠庄等この内也、依上保お久慈郡に属す、古の奥州白川郡の地にして、永正以来常陸に属せる地なり、久慈東、及佐都西、佐都東二郡の地、過半旧に復して久慈郡に属す、佐都東の内石名坂以北、宮田助川以南の地、多珂郡に属す、古の久慈郡なり、其他多珂郡の地は、なべて旧郡の地なり、是に至て始めて十一郡の名に復す、〈参取弘安太田文、佐竹家士知行目録、常陸国図、常陸国誌、円福寺記録、吉田社文書、鶴岡社文書、薬王院文書、白川結城文書、佐竹氏文書、佐竹系図、正宗寺記録、及父老伝説等、〉然れども西河内、西那珂の地、河内、那珂の本郡に隔たるお以て、俗間誤て十三郡と称す、〈参取佐竹氏文書、常陸国誌、常陸国図、父老伝説、〉此内佐竹氏の領する所は、茨城郡の内八万五千六百八十八石三斗一升、那珂一円七万七千七百三十三石五斗九升、久慈郡一円七万五千三百五十五石七斗、多賀郡一円一万五千三十三石三斗二升、鹿島郡一円二万五千九百九石八斗弐升、行方郡一円二万六千三百七十一石八斗三升、新治郡の内三万五千四百廿八石九斗七升、真壁郡の内四万九千卅石六斗九升、筑波郡四万三千五百卅九石八斗、河内郡の内一万六千四百六十一石一升、信太郡四万八千九百七十八石二斗八升、合せて十郡五十万二百卅一石三斗二升なり、其外奥州の南郷二万六千八百三十石三斗九升、下野の武茂九千四百八石四斗八升、同国茂木九千三百九十四石四斗、すべて五十四万五千七百七十四石五斗九升佐竹氏これお領す、〈佐竹氏文書、正宗寺旧記、〉凡本国の間、他家にて領するは、茨城郡笠間城は、宇都宮国綱の所領にて、玉尾美濃守是お守る、〈笠間城記〉真壁郡小栗城、那珂郡坂戸城等も、皆国綱の領分也、〈宇都宮記、小宅家譜、〉西河内郡下妻城は、多賀谷修理大夫重経是お領す、〈円福寺記録〉真壁郡下館城は、水谷伊勢守勝俊の所領にて、結城の附庸也、〈水谷系図〉新治郡土浦城は、結城家の領分となる、〈土浦城記、赤林文書、〉河内郡牛久五千石は、由良信濃守国繁是お領す、佐竹領の内にも、信太郡四万八千石は、蘆名主計頭義広与力としてこれお領し、江戸崎城に居る、鹿島行方等の地六万石は、佐竹中務大輔義久の所領なり、陣営鹿島の宮中にあり、代官の者これに居る、〈佐竹文書、鹿島大宮〉〈司文書、福泉寺文書、小宅氏由緒書、〉又義宣の父義重の知行分五万石あり、総高の内公料一万石あり、これお御蔵入と雲、義久の代官おして之お管せしむ、依て内千石は代官の得分とす、又石田三成、増田長盛の得分各三千石あり、〈佐竹文書〉依て佐竹五十三万石とす、〈当代記、按に東宮記、増補家忠日記等に、佐竹八十万石とし、慶長見聞記に百万石と称するものは、大概お雲ものにして、其実にはあらざるなり、〉今年佐竹氏有司に命じて、水戸の城お修築す、元狭隘なるお以てなり、援に至て一国の大城となる、〈常陸国記〉同四年六月、豊臣家より佐竹義宣に所領の朱印お賜ふ、凡五十四万八千石也、内義宣の分十五万石の内、五万石は小田原没落後の加増なり、同蔵入の分十万石は無役、この内九万石は加増なり、義重の分五万石の内、四万石は加増にて、すべて無役なり、義久の分六万石の内一万石は無役、五万石は加増なり、与力家臣の分十六万八千八百石、内四万石は加増なり、其余一万六千石は御蔵入、及石田増田の分なり、〈朱印、按に検地の高より二千余石お余す、蓋検地の後墾開して得る所と見えたり、〉是に至て義宣家臣の所領お移転し、〈佐竹家士知行目録〉居住の陣営お国界に置てこれお守らしむ、