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冠辞考
七爾
にひばり〈つくばお過て〉 景行紀に、〈日本武尊、日高みのくにより常陸お経て甲斐に到て酒折の宮にます時御うたはして、侍ふ人に問給はく、〉珥比麼利(にひはり)、兎玖波塢須擬氐(つくばおすぎて)、異玖用加禰兎流(いくよか子つる)、〈かたへの人のえも答へ奉らぬお、火ともして侍るおきなぞ、末お申しける、〉伽餓奈倍氐(かヾなへて)、用珥波虚々能用(よにはこヽのよ)、比珥波苔塢伽塢(ひにはとおかお)、こは常陸国の新ばりつくばお過て、此甲斐の酒折までいく夜か宿りて到つるぞと、片歌にうたはして問せ給へるお、御答申せし意は、指おかヾめて、数ふれば、夜にては、九の夜、昼にては十日ぞといふ也、さて御歌のつヾけは、新墾(にひばり)筑波てふ地の名お、新毬(にひまり)おつくといひなして、次おば数の語もてのたまへりと見ゆ、其意お得て、数もて御こたへも申せし物と、荷田大人はとかれし也、げにも隻歴給ふる所々にやどらしヽ数お問せ給へるのみならば、たれかこたへ奉り難からん、独此老人は、手まりつく数の語もて末お続申せし故に賞給へりし也けり、〈此御歌、古事記には婆里(ばり)、日本紀には麼利(まり)とあるは、婆の濁と麼の清と通ふ例なれば、いづれによみても意は同じき也、〉是によれば、今も手まりつくに、ひふみよ(㆒㆓㆔㆕)雲雲といへるは、古き世よりのことなるべき也、〈天智紀にあるは蹴まり也、それよりも上つ代には、手まりのみこそ有つらめ、〉猶此事は、万葉巻九に、〈筑波山に登〉新治乃(にひばりの)、鳥羽能淡海毛(とばのあふみも)とよみ、神名式、和名抄などにも、常陸国に新治の郡と筑波郡と見えたれど、まだ此尊のいでませしほどには、郡の分ちまでもなくて、たヾ此二つの地の名の有おもて並挙給へる歟、又筑波に新まりおつくとのみいひかけ給へる歟なども思ひしお、今おもふに、小計(おけ)の皇子の御詞にも、出雲は新墾(にひばり)との給ひ、その外新ばりてふ古語も多ければ、此つくばわたりにいと古へ新ばりの所有が、はやく所の名と成て侍りけんお、幸に新まりつくてふ意おそへて、あやにつヾけさせ給へるならんと覚ゆ、