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新編常陸国誌
九郡名
茨城郡 倭名抄雲、茨城〈牟波良岐〉古の茨城国なり、〈◯中略〉風土記、倭名抄お按ずるに、是郡東香島郡南佐礼流海、〈按流海は、風土記信太流海、行方海などありて、当時定名なし、和名抄本郡佐賀郷ありて、今坂村と雲ふ、其地南辺流海に臨む処なれば、佐礼は佐賀の誤なること疑なし、今は流海お総称して霞浦と雲ふは、風土記行方郡の地名より広まりたる称なれども、浦は江海辺曰浦、又大水有小口別通曰浦の二義にて、古称に能くかなへり、或雲佐礼は佐我に作りたるよりの誤なるべし、〉西筑波山、北那珂郡にて、夷針、山前、城上、島田、佐賀、大幡、生園、茨城、田余、小見、拝師、石間、安飾、白川、安侯、大津、立花、田竜等の十八郷お管す、中世本郡お南北二部に分ち、国府以南お南郡(○○)と呼び、以北お北郡(○○)と唱へ、庄保其間に錯雑す、文禄の検地に本郡の地、南は新置の新治郡に併せられ、東南は鹿島郡に削られて、更に西方笠間郡お合せ、北方那珂郡の南辺お加ふ、元禄中、鹿島郡の地お旧に復し、西那珂郡お併せて、新に境界お定む、其地東は涸沼の下流お以て鹿島郡の北辺に堺し、南は新治、行方、鹿島三郡に錯り西は真壁郡及下野国に隣り、北は那珂川お限り、那珂郡に対し、三百三村、十五万七千七百五十余石お領す、