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新編常陸国誌
十俗称郡名
吉田郡(○○○)〈与之多〉 那珂郡東辺の地にて、本郡三分の一に居る、吉田郷お本とす、故に吉田郡と雲ふ、将門記に、将門常陸に在て、以下原本欠 補、貞盛の所在お尋づぬる条に、援猶相尋之間、漸隔一旬、僅吉田郡蒜間之江辺拘得貞盛、源扶之妻雲雲、宮本元球雲、本国の内、私に称せる郡名にては、吉田郡最も古し、嘉元田文に、吉田郡廿三町一段内、恒富倉員〈按、吉田社仁平元年留守所牒にも、吉田郡倉員あり、今其所お失す、〉塩井河、〈按大使役記にも、塩井河氏あり、今其所お失す、〉大野、石前、武田、大戸、長岡、中野根、〈今詳ならず〉平戸、馬渡、石川、戸田野とあるもの、皆其地の目なり、又大掾伝記に、吉田氏族の姓氏、菖蒲井、中山、方波見、〈並上石崎の地〉石崎、大戸、石河、盛戸、〈今森戸〉島田、大野、平戸、谷田部、勝倉、武田、堀口、市毛、猫崎、〈大戸の地〉蛭町、大泉、〈並下大野の地〉道理山、〈三段田の地〉八辻、〈按、其所詳ならず、江戸重通、室伏某に贈る書に、やつむしやはりの内と雲ふ事あり、八辻に似たり、今八文字と雲ふ苗字の人あるは、此八辻、やつむしの転ぜしにや、〉常葉、宇喜、〈又宇木、浮に作る、常葉の地なり、〉袴塚などあるお以て、郡境の概略お知るべきなり、その域は、今小鶴川お西界として、その東北より那珂東に渡りて、その南辺に若干ありしなり、〈按ずるに、薬王院延元二年、観応三年、文和二年、貞治五年、応安元年等文書、吉田社応永三年文書、税所応永十七年文書、及切手員数、大永中記す所の諸草心車抄等に吉田郡の称あり、其他枚挙するに徨あらず、〉