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新編常陸国誌
十俗称郡名
佐都郡(○○○)〈沙土〉 久慈郡の東辺なり、本郡三分の一に居る、佐都お以て名称とせるは、本郡薩都郷お本とすればなり、 補、佐都河お界ひして、東西二郡に分ちしと見えて、弘安太田文に、佐都東二百八十九町八段三百歩、内東岡田、西岡田、根本大森、泉、今泉、千根、波田、小沢、佐都西二百五十六丁三段小、内小野崎、中小野崎、阿久津、小野、西河内、吉津、磯部、石神、鎌田、東河内、大田、白岩、世谷、大橋、加津見沢の名あり、以て二郡境域の大概お知るべし、 伊佐郡(○○○)〈以沙〉 新治郡の西辺なり〈補今真壁郡に入る、〉国人新治お分ちて西郡、中郡、東郡とせしことは、郡名第一に述べたるが如し、其内又西郡お分て二条とし、西郡南条、西郡北条となせり、さて南条お関郡と雲ひ、北条お伊佐郡とよべり、弘安太田文に、西郡南条と書して、関と傍書し、西郡北条と書して、伊佐と傍書せしは此故なり、全く伊佐郡と書きたるが物に見えたるは北条記なる、北条時国の事跡に、弘安七年下向常陸国伊佐郡と見へたる、是ぞ始めにはありける、伊達系図、常陸入道念西の伝にも、住伊佐郡中郡と見えたり、〈中村は今の中館なり、原本頭書水谷系譜に、伊佐三十三郷の称あり、〉鹿島大禰宜文書、〈以下原本欠〉 補、宮本元球雲、鹿島護摩堂文書、〈応安〉伊佐郡平塚郷〈今村あり〉などありて、伊讃お本郷とす、弘安勘文、西郡北条、〈伊佐〉九十九町一段六十歩内〈以東四十八丁大、以西五十一丁半、〉とあり、