[p.1120][p.1121]
新編常陸国誌
十俗称郡名
笠間郡(○○○)〈加佐麻〉 古新治郡東辺の地なり、故にこれお東郡と雲ふ、〈今悉く茨城郡に属す〉弘安太田文に、東郡吉原四丁三段小、福原十八丁六段小、稲田社十七丁小、赤沢十四丁一段半、〈鹿島神領〉野尻二丁二段小、本殿廿丁五段、大蔵省保五十一丁二段大、大淵九十四丁二段六十歩、黒栖四十二丁五段、方庭四十七丁三段、石井原七丁八段、大蔵庄五十一丁二段大〈按に前に大蔵省保五十一町二段大とありて、ここに亦かくの如く出でたるは、重複に似たり、されど笠間十二郷と雲へれば、全くの重複にはあらず、一つは徳倉なるべし、但丁段の数の同じきは、大蔵とかきたるより、遂に丁段おも誤りたるなるべし、下に雲へる今の十二郷と合せ見るべし、〉とあるこれなり、全く笠間郡と記せるは、新鸞絵伝に、笠間郡稲田郷雲雲と見えたるぞ始めなる、この絵伝は、永仁三年になりたるものなれば、はやく此頃より笠間郡の名ありたること明に知られたり、洞院相国の拾芥抄にも笠間郡おのせたり、この書も、後花園帝時代のものなり、但笠間と雲へる名は、古くよりありしと見えて、風土記にも、自郡以東五十里在笠間村雲々とのせたり、これは村里の名にてありしお、郡と雲ひ出たるは、鎌倉将軍の世のこととぞ聞えたる、これも東郡とのみ雲ひては、新治一郡の称にてあれば、更に笠間郡と称して、別に三郡の如くにはなれるなるべし、府中の税所に蔵せる文書の内、年貢など召さるべき符の数お書きたる者と見ゆる書に、始めには切手員数と題して、笠間郡十二枚と記せり、太田文にも注せるごとく、笠間郡お十二郷に分けられたれば、切手も十二枚ありしと見えたり、此書も年号はなけれども、鎌倉将軍の時の物とは見ゆるなり、税所文書の内、笠間孫三郎家朝が、応永四年八月、鎌倉奉行所に上つる目安状に、欲早被退宝戒寺三聚院当知行、如元全知行笠間郡十二郷、石并郷半分事〈残半分者御料所〉雲雲、右懸名字笠間十二け郷内、相違郷之事、去明徳元年十二月給賦銘、令致上訴之処、於京都任至徳元年関東御吹嘘、並去康応元年御注進等之旨、明徳二年二月廿二日、下給十二郷一円安堵御下文上者、於関東御沙汰、弥不可有予儀歟、彼石井郷残半分者、被置御料所上者、宜奉任上意然、早被退彼三聚院当知行、任京都安堵御下文旨、下給御施行、石井郷如元全知行、為致夙夜奉公之勇雲々とあり、これお以て見れば、笠間十二郷はまさしく笠間氏の知行せし所なり、熊野参詣願文の内に、明徳二年極月初二日、常陸国笠間郡住人、福原常陸介朝宗、安藤四郎国守〈石井〉平六三郎国安〈黒栖郷〉と見えたり、後には笠間庄と称して、郡とは雲はざりしと見えて、稲田社祭礼の歌に、奥州は五十四郡、常陸は十六郡、其中に笠間庄稲田郷に立ち給ふ、稲田四所大明神雲々と雲へる句あり、この歌何れの世に作れるものなるかはしらざれども、常陸十六郡となるによれば、天正以前なること明なり、〈◯中略〉 東条郡(○○○)〈皆以音〉 信太郡の東辺也 補、弘安太田文に、信太東とあるもの是なり、