[p.1134][p.1135]
新編常陸国誌
二十九都邑
土浦(○○)〈都知宇良〉 土浦は、古へ河内郡大村郷の内なりしが、〈一説、茨城郡大津郷の地なりとす、〉後郡郷の変改により、遂に新治郡に属せり、元禄郷帳に、新治郡東崎町、中城町とあるもの即是なり、伝言ふ、平将門始めて城お此地に築き、大掾氏の支族之に代り、後又今泉、菅谷、結城、松平、西尾諸城主お経て、慶安二年に至り、朽木氏の居城となる、万治元年城の西南郭外なる民屋お、田宿町の背に移して裏町と雲ひ、其旧止に奴卒お置き、足軽町と呼べり、後外西町と雲ふもの即是なり、〈◯中略〉 笠間(○○)〈加佐麻〉 笠間は、佐白山の西麓に在り、古新治郡に属し、中世笠間郡に入り、西那珂郡に転じ、後終に茨城郡に隷す、元禄郷帳に、茨城郡上市毛村あり、笠間は即其中なり、初め元久中、藤原時朝下町よりこの地に移り、城お佐白山上に築き、遂に笠間氏となる、子継ぎ孫承け、十八代お歴て、天正十八年に至り亡ぶ、その後蒲生、松平、永井、浅野、井上、本庄諸氏相続ぎて此処に居り、元文二年より永く牧野氏の城市となり、屡改修して区画大に定まれり、町数凡二十余、大町、愛宕町、高橋町、荒町、新町、裸町等は、商売居住の町にて、戸数凡三百四十八、鷹匠町、座頭町、鉄炮町、日向片町、日蔭片町、田町、大和田、桜町、五騎町、檜町、四谷、御旗前、表町、裏町は諸士の住地にて、其戸数凡そ三百六十ありと雲ふ、〈◯中略〉 下館(○○)〈之毛陀底〉 下館は、古新治郡伊讃郷の地なり、後世伊佐郡に入り、遂に定めて真壁郡の所管となる、元禄郷帳に所謂、真壁郡西郷谷村、田中村、交会の地にして、東は勤行川お帯び、稲野辺、市野辺、下中山諸村に界ひし、西は菅谷、外塚、西谷貝三村に接し、南は下岡芹、二木成、西芳町三村に隣り、北は岡芹村に連りて、東西三十丁、南北三十三町あり、其市中は、東西十町、南北十二町に余れり、下館城主記お案ずるに、長享文明の間、水谷伊勢守勝氏、城おこの地に築づき、子孫連綿、寛永十六年に至りて他方に移れり、後松平、増山、黒田諸城主お経て、享保十七年より、長く石川氏の城市となる、天明中の旧記に拠るに、市中凡十け町ありて、大町、西町、薬師町、荒町、片町、田町、金井町、裏町、外け町、桜町と雲ふ、戸数三百六十五、人口千七百六十二人、〈但大町、西町、薬師町、荒町、片町の戸数は二百十七にして、人口は千百四十七人なり、〉ありしと雲ふ、