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近江国輿地志略
二建置沿革
夫以は、近江国旧淡海の国と号す、旧事紀に出たり、衆山東西に峙、中に大水お湛、殆海のごとく水淡し、故に名づく、或は佐々浪の国といふ、楽浪、或は佐々名実の文字につくる、倶に仮名文字なり、佐々は小少の名にして、ちいさきの義なり、小き蟹おさヽがにといふ、小さき石おさヾれ石といふ、少しく夜のふくるお小夜ふくるといふがごとく、さヽは少しきなり、此湖の浪少しくして、大海の浪のごとくあらざる、そのいひなり、顕昭もさヽ浪、さヽら浪はみなちいさき波の名なりとしるせり、淡海国、佐々奈実の国、みな湖水あるによりての号なり、天智天皇都お大津に遷させたまひ、湖の皇都に近くあるおもつて、改て近江国と号したまふ、湖は、江なり、遠江の国に対して名づけたまふといへり、古事記に、近淡海国、遠淡海国の名お載たり、今按ずるに、元明天皇の後、近淡海の文字お近江国の字にあらためさせたまふなるべし、今訓じてあふみといふ、あふみはあはうみなり、はうの反ふと反る故、今あふみとかけり、俗間今江州といひ、近州といふ、文人詩客詞章おつくり、簡牘お栽する者、みなこれおもちゆ、甚しき誤なり、近江国の号は、詔に出てより、歴朝革ることなき嘉号なり、然るお私に近州江州の号およぶこと、彼西土の禹貢天下お九州に分てるに擬せんと欲せるこヽろなるべし、釈虎関元亨釈書お著し、もつはら州の字お用、是より流例となる、江州のごときは其意なしとすべからず、近州のごときに至ては、全く意義なし、俗習の久しきとはいへども、改むべきことなり、