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近江国輿地志略
三藩封
夫以れば、近江東山道に属す、〈今の十五国とことなり〉景行天皇の十五年春二月朔戊子、彦狭島王おもつて、東山道十五国の都督に拝すと、日本紀に見へたり、旧事紀に、志賀高穴穂の朝の御代、彦坐王三世孫大陀牟夜別おもつて、国造に定たまふとあり、古事記には、天押帯日子命は、近淡海国造の祖なりと見へたり、〈◯中略〉大凡近江国司及介掾目郡司庄司などに任ぜし人お、一一書しるさば、牛に汗し棟に充るとも尽すべからず、故にこれお省く、中世に及て、宇多天皇の皇子敦実親王の孫参議扶義、近江の守となる、扶義の末葉佐々木秀義、当国の主となつてより、子孫相続して封おうくる、承久の役、佐々木信綱関東の催促にしたがひ戦功あり、故に信綱北条が為に寵せらる、信綱が長子お泰綱といふ、佐々木六角の祖なり、次子お氏信といふ、佐々木京極の祖なり、六角家は織田信長の為に亡され、京極は上坂、浅井等が為に国除かる、太閤秀吉一統の後、秀次おもつて八幡山に居しめ、近江中納言と号す、いくほどなく秀次都にのぼり、秀吉も薨じぬ、神祖一統の後、諸将おもつて其地に封じたまへり、