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近江国輿地志略
六志賀郡
抑当郡は東琵琶湖の半お限とし、巽は栗本郡に交りて、南は山城の国二尾谷、及び宇治醍醐の物に並び、坤は山城の国界牛尾山相坂の関山如意岳に至り、西は大比叡なり、篠の嶺お限り、乾は山城嶺折立山鍵坂お界とし、北は高島郡界細川鹿瀬山に交り、艮は屈曲して高島郡界打下に接せり、村数七十九あり、蓋し志賀の文字、諸書に載るところ不同なり、日本紀志賀につくり、続日本紀には志我の文字につくれり、諸書にまたお主く滋賀の字にも書せり、いま日本紀に従、古老伝て雲、往古郡中に志賀某と雲ものあり、因て郡の名とすといへり、 臣 按ずるに、此説わづらはし、人皇十二代景行天皇の御宇、大和国纏向日代(まきむくひしろ)の宮より、都お当国志賀高穴穂宮に遷し給ひて、成務天皇、仲哀天皇相続てこの地に都したまふこと、日本紀にあり、いにしへは国の奥区(もなか)お称するに、往々同名お以てす、仮令之、和泉国に和泉郡あり、河内国に河内の郡あるがごとし、先志賀の都あつて、然して後志賀の郡と名付るなるべし、