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新撰美濃志
一美濃全体説
田甫は、和名類聚抄に、美濃国田万四千八百二十三町一段六十五歩と見え、拾芥抄に田万五千三百四町としるし、新撰類聚往来に、美濃田数四万四千八百三十三町、南北三日、山原田畠多、紙帛豊也、五穀万倍生ず、大上国也とかけり、後世数度の撿知に田数増し、あるひは原野お墾開して新田とする物火しく、和名抄等の田数に八十倍にも及べり、類聚国史に、天長九年九月癸卯、美濃国空閑地二十四町一段為勅旨田、三代実録に、仁和二年十月十四日己未、令美濃国班給百姓口分田、政事要略の諸国国造田四百十一町五段のうちに、美濃国二十四町、膂力婦女田二十七町三段のうちに、美濃国二町賜田八町のうちに、美濃国一町と見えたり、 税稲は、〈〇中略〉中むかし永銭つもりの頃は、何万貫文の地なりしにや、定かにしるしたる書なければ、今は知りがたし、天正の中頃より、諸国ともに石高となりて、今の免賦といふ事はじまる、是お天正の石直しといふ、当国は古高帳〈元和の頃の物といへど、奥書なければ定かならず、〉に、六十万九千七百四拾石余としるし、元禄十四辛巳年十一月の郷高帳には、六十四万五千百一石五斗三升と見えたり、