[p.1304][p.1305]
新撰美濃志
一美濃全体説
風俗は、質直律儀にして、田舎めきたれど、岐阜大垣のあたり、繁華の地は然らず、京大坂なんどの風儀おまねぶかたも見えたり、すべて農夫も帯刀する事お好み、〈俗に美濃のさしだおれといふ〉旧家の世系おたゞし、賤と良とのわかちおたてゝ、由緒おうしなはずして守らむとす、此故にやゝともすれば、郷党の争論起る事あり、むかしもしか義気強く武芸などもはげみしにや、当国の兵士健児等お召しつかひ給ひし事多く、続日本紀、類聚国史ともに、天平宝字六年二月辛酉、簡点伊勢近江美濃越前等四国郡司子弟、及百姓年四十〈類史四十〉已下二十〈類史廿〉已上、練習弓馬者以為健児雲々と見え、延喜の兵部式諸国健児の条に、美濃国一百人としるせり、又類聚国史に、養老四年十一月甲戌、遠江雲々、美濃六国者、免征卒及廝馬従等調庸並房戸租としるし、三代実録に、元慶二年六月二十一日乙酉、勅令東海東山両道諸国簡択勇敢軽鋭者、須待出羽国奏請応機奔赴雲々、美濃三十人と見え、日本紀略に、天慶四年六月二十四日癸巳、於右近馬場試近江美濃伊勢等兵士なんどしるせり、