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諸国名義考

飛騨 和名抄に、飛騨、〈比太、国府在大野郡、〉名義は挽手人(ひたびと)より負し名なるべし、延喜民部式に、飛騨匠丁とあり、賦役令に、凡斐陀国庸調倶免、毎里点匠丁十人、毎四丁給廝丁一人、一年一替、余丁輸米、充匠丁食とあり、類聚三代格の承和元年の条に、弘仁五年五月廿一日雲々、得飛騨国解称、貢上下匠、毎年有数、事畢之日、規避課役雲々とあり、鴨祐之が大八州記に、按杣者材木之名、而匠工造杣木也、此国多材木、而其民課役皆為匠丁、故以為国名也乎といへり、万葉集に、雲々(かにかくに)、物者不念(ものはおもはじ)、斐太人乃、打つ墨縄之、直だ一と道に(すぢに)また、斐太人之、真木流雲(ながすとふ)、爾布乃河(にふのかは)、事者雖通(かよへど)、船曾不通(ぞかよはぬ)とあり、立入信友は、この打墨縄之雲々とよめるによりて、挽板(ひきいた)の略かりかといへり、また或書に、此国風土記の文とて引たるには、飛騨本美濃国内也、然建近江大津宮時、自当国良材多出也、駄負木、行大津如飛也、故号飛駄といへるは、いにしへ字音なかりしに心つかざる妄説なり、