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飛州志
一土地
郡并名数古今変異 三代実録曰、貞観十二年十二月八日乙酉、分飛騨国大野郡為両郡、大野大原、益田、荒城、 延喜式又倭名類聚抄等、大野、益田、荒城、 大八洲記曰、大野〈於保乃〉益田〈万之多〉荒城〈阿良木〉 和漢三才円会又日本鹿子等、大原、〈府〉益田、荒城、天野、 続太平記、大原、益田、太野、荒城、 今世称し来る所三郡、益田、大野、吉城、是也、 按ずるに、大厚大原の二郡今は廃せり、又古書に富安郡と載たるものあり、博く諸書お考るに未見、是富安郷お誤り記すもの歟、〈吉城郡保村憶念寺本尊裏書にあり〉或は東鑑に、飛州荒木郷と出たり、州内の古書にも、荒木郡吉木郡と記せしものあり、然れば木お用いし時もありけるにや、又里民の説に、古昔荒城郡の主たる人、城荒ると雲ふ文字お忌て、吉城と改めけると雲ふ、然し是等は俗記の甚しきと謂ふべし、猶城築陣営の法に於て、悪名の地お除くこと、其謂れなきには非ず、太平記に、観応二年二月三日、将軍播州光明寺の城お攻るとき引尾に陣取、師直は泣尾に陣取て、其軍利なかりしなど見えたり、