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諸国名義考

信濃 和名抄に、信濃、〈之奈乃、国府在筑摩郡、〉名義は、信濃国風土記に、往昔建御名方神等之所住之地也、治天下御神大穴持命、又少彦名命、建御名方命巡行此国給、到坐阿羅野、詔此国者木葉草垣葉品々也、故雲品野、今雲信濃者、音之転也とあり、古事記伝には級坂(しなさか)あるゆえの名なりとあり、こは古事記に、志那陀由布雲々とある歌の志那は、坂路にて、陀由布は猶予にて、平らかならざるさまおいふよしあり、日本書紀景行天皇巻に、日本武尊、進入信濃、是国也山高谷幽、翠嶺万里、人倚杖而難升、巌嶮磴紆、長峯数千、馬頓轡而不進、然日本武尊披烟凌霧、遥経大山、既逮于峯雲々、また推古天皇巻に、有蠅聚集浮虚、以越信濃坂、鳴音如雷雲々、また斉明天皇巻に、科野国言、蠅群向西、飛踰臣坂、大十囲計、高至蒼天雲々、また日本紀略延長三年七月二十九日、東国民烟為風多損、信濃御坂路壊雲々、また万葉集、信濃国防人歌に、知波夜布留、賀美乃美佐賀爾、怒佐麻都里、伊波負伊能知波、意毛知々我多米とよめるお始にて、後、拾遺集、新古今集、又今昔物語などにも、信濃の御坂の事見えたり、此坂お級(しな)とはいへるなり、志那の約りは佐にて、加は所(か)なり、かゝれば佐加(さか)は級所(しなか)なるよし、古事記伝に見えたり、〈〇中略〉山根宗利といふ人この国に行て、科布(しなぬの)の裁端(きれはし)お我方におこせたり、賤の衾などの料なりといへり、いと麁き布なり、和名抄に、調布、豆岐乃沼能、又有信濃望陀等名雲々、其体与他国調布頗別異、故以所出国郡名為名也とあり、科木(しなのき)より出たる国名か、国名より出たる調布の名か、本末おしらず、又思ふに、伊勢津彦といふ神、大風お起し立去りしより、伊勢国風土記〈上の伊勢国の条に引り〉にあり、延喜神名式に、水内郡風間神社あり、今も風間村といふ、俊頼朝臣の歌に、信濃なる木曾路のさくら咲にけり風のはふりに透間あらすな、夫木集に、信濃路や風のはふりご心せよしらゆふ花の匂ふ神垣、などよめり、俊頼朝臣雑談抄、また清輔朝臣袋草紙などに、風祝部(かぜのはふり)の事あり、かゝれば信濃は息長野(しなの)にてもあらむか、中川顕允は万葉集に、三篶刈信濃(すヾかるしなぬ)とよめれば、篠野(しぬぬ)ならむかともいへり、