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信府統記

筑摩郡〈高五万四千八百六石四斗三升九合二勺、村数二百四十二、是は元禄年中、国絵図攺られし時の知行高村数なり、当郡の内木曾は始め当郡の内にあらず、元禄年中、国絵図攺められし時より、当郡に定められたり、木曾は尾張殿領分なれば、下に別に記す、桜沢の橋より北、松本領の境左の如し、〉 凡当郡は信濃の国府なり、郡の名とせる筑魔村は、〈古は塚魔の字お書けりとかや、近世筑摩の字お用ゆ、〉庄内の地なり、〈庄内の号も、国府なるが故なりとかや、〉筑摩の神社は、昔し当国に鬼神住みて、人民お悩ましける故、退治せられける時、其鬼の首お此所に埋め、其上に神社お建て、八幡宮お勧請ありしと言伝ふ、〈此神社の縁起、天正年中までは、社人所持せるの所に、小笠原家当地没落の時、両社人の内一人、異心お懐きて甲州へ属し、一人は兼て小笠原家の帰国お祈りて、常に神前に灯明お捧げ、祈禱解りなかりし故、貞慶帰参の砌、社領お賜ひしが、異心お懐きし一人は、貞慶帰参ありて、怨敵の意趣遁れ難く、遂に落失せしが、其時縁起まで持行けるにや紛失せり、其後尋ね求むれども協はず、今ある所の記は、後に書記せるもの故慥ならず、宮中にある所の物は、神秘にて社人も見ること能はずと雲ふ、去るに依て、此社の起発年代知れず、松本の城主代々之お修造す、祭礼等の事は、神社の部に記す、古書に筑摩権現とあるは、此社のことなり、〉是れ筑摩郡と称するの原なり、当郡木曾の外は、過半松本領なれども、御代官所又は諏訪高遠の領分、少し入交れり、