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信府統記

筑摩郡木曾 此郡桜沢の橋より南は木曾と称して、尾張殿領分なり、此知行高現米千六百十二石五斗五合、但し山中にて田地なきが故に、榑木二十六万八千百五十八丁、土井四千三百五十二駄お以て、右現米の代として、定納せる村数二十九、此谷の内は、往古より木曾とのみ称へ来りて、何郡と雲ふこと分明に知れざるが故に、正保二年乙酉、国絵図出来までは郡付なく、筑摩郡墨引の外なり、其後元禄年中に至り、国絵図改められし時、吟味ありし処に、正保二年已後、公儀へ筑摩郡と書上られしよし、山村氏の証文あるお以て、始めて分明に此郡と定れり、〈桜沢の橋より北は松本領記録に載す〉凡木曾は深山幽谷の地なり、〈古人も蜀の桟道に比せしとなり〉文武天皇の御宇、大宝二年十二月、始て木曾山道お開くの由、続日本紀に見えたり、昔者信濃美濃の間に、通路なかりし時は、伊奈より三河国へ出る、杣路峠お越て往還せしとなり、木曾の中へも、伊奈界の山お越て通路あり、〈伊奈郡の所に見ゆ〉然るにより、木曾お伊奈郡とも雲ふ、又安曇郡と記したる、旧き書もあり、或は木曾郡とて、一郡になしたるなどの説は誤りの由にて、今は筑摩郡に定まれり、