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信府統記

更級郡〈高四万五千九百七十七石二斗二升六合、村数九十四〉 当郡は国中にて、他国へ隣る所なし、北は水内郡界、犀川の中央にて、東は埴科郡界、千曲川の中央なり、〈委細前に見ゆ〉但し北東の隅〈千曲川犀川〉落合の所、東にて少の程高井郡界、河合村の丑寅の隅、両川の落合より、川向丑の方へ、大豆崎村出張り、同寅の方へ、牛崎村出張りて、其下郡界、北は水内、東は高井なり、南へ細く斗出せし処は小県郡界、室賀峠の方、少の程なり、是より西は、戌亥の方へ斜に、筑摩郡界、姨捨山の申酉の方、往還の峠より、未申の方へ斜に、又筑摩郡へ界し、下岡村の辺にて、犀川の中央へ少し掛りて、是より北へは、当郡の西の方安曇郡界なり、〈此両界は委く松本領筑摩安曇の記中に見えたり〉 此郡には、当時城地なし、牧の島古城の跡は、犀川の西へ流れ、東へ流るヽ中間にて、島の如きの地なり、甲州武田家より、馬場美濃守お置かる、此所、北は水内郡なり、水内の橋より、西に当れる犀川の渡りは、水内郡の部に記す、〈但し西の方は此郡犀川の向ふまで出張りてあり、牧田中村より大原村へ船渡あり、是は犀川お西へ渡る水面三十四間、是より川上大岡村の内、桐沢村より安曇郡船場村へ船渡あり、四十二間、是は安曇郡の部に見えたり、〉凡そ川中島と雲ふは、高井、水内、埴科、更級の四郡へ宣れりと雖ども、取分け更級郡は、千曲川犀川の両間にある故、専ら此郡お指付し、此郡にても、又別に御幣(おんべ)川より東お指すなり、御幣川今は水なき故、川跡も見えず、人家田畑等と為れり、御幣川村、高田村、原村、今井村の内、北原村丹波島村は往還なり、此東に横田村と雲あり、〈古へ木曾義仲越後の国主城四郎長茂と合戦ありし所なり、是お筑摩川合戦共雲ふ、寿永元年九月、此合戦信濃源氏井上九郎光森と雲ふ者の武略にて勝利お得、或は河へ追込或は思ふ所へ追落し、越後勢多く討るヽ中に、越後の山野太郎、会津乗丹房など雲事一騎当千の兵討死し城の四郎も手負、漸く脱れて川に沿て越後に帰る、此長茂は平の惟茂の子貞盛の甥なり、兄の跡お継て、越後守に任ずと、古書に委しく見えたり、〉永禄四年辛酉九月十日、武田信玄長尾景虎と合戦ありしも此所なり、〈川中島合戦とて、世に隠れなき大合戦なり、謙信の陣城妻女山は、埴科郡にて此所より千曲川お隔て南なり、今に陣取の塚多くあり、信玄は雨の宮の渡りお取切り、当郡茶臼山に陣取れり、茶臼山は往還の西にて有旅村の近所なり、〉