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上野国志
智那波郡
按に、昔時那波氏二家あり、一家は藤原秀郷の後、淵名大夫兼行が二男成綱が子那波二郎季広と雲、其子お太郎広澄と雲、〈泉竜寺の開基なり〉其子家澄孫景澄の後聞ることなし、〈東鑑建久六年に、那波太郎あり、これ広澄なるべし、又那波弥五郎と雲あり、これら藤氏の那波なるべし、大江氏の那波は、年代お以計るに、これより後の封なるべし、又考るに、大江広元が三男政広、始て封お那波に受く、政広兄弟の次弟に於て太郎と称することなるべし、〉一家は大官令大江広元が第三の子掃部助政広、〈始名宗元〉始て頼朝卿の封お受て那波お領す、其子左近大夫政茂、関東の評定衆たり、それより子孫相続して那波お領す、〈又按藤氏の那波衰微して、後に大江氏の那波其地お兼子併せしなるべし、〉 今の村落四拾四村、租入弐万千八佰拾参石参斗壱升弐合、