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高崎志

上野国群馬郡赤坂の庄は、名義未詳、〈◯中略〉和田氏居住の頃は、民家その北より東南に立つヾけり、是所謂和田宿也、〈◯中略〉慶長三年戊戌、中山道お開かれしに及て、和田は緊要の地なればとて、直政〈◯井伊〉に仰せ、城お築しめてこれお賜ふ、此時直政地名お更て松が崎(○○○)と雲しと、竜広寺の住持の白庵に語られしに、白庵曰、猶然るべく、去ながら諸木に栄枯の時あり、物に疆のあることはめづらしからず候、公既に命お奉て此城お築き玉へるは、所謂盛事大名也、されば成功高大の義に取て、高崎とし玉はればいかヾと雲ければ、直政大に悦て高崎(○○)と名づけられ、且高崎の二字お以、竜広寺の山号とすべきよしお命ぜらる、