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下野国誌
一郷名存廃
一本足利駅お余戸駅に作る、また和名抄にも余戸駅家と記したり、続日本紀に、光仁天皇宝亀二年冬十月己卯、太政官奏雲々、其東山駅路従上野国新田駅達下野国足利駅、此使道也雲々とみえたり、足利駅は今に存す、三鴨駅は都賀郡下津原と雲所なり、和名抄には三島駅家と誤て記したり、田郡駅は今多功駅に作りて存す、そも〳〵藤原奈良の朝の法は、五十里に一駅お置とあれば、今道八里余りの間にあること考て知るべし、衣川駅は宇都宮の東の方にて、今の石井村のあたりなるべし、回国雑記にも、宇都宮より常陸の小栗へ行給ふ条に、衣川と雲所にて雲々とみえたり、新田駅は氏家の東なる桜野村、上野新田といふ所なりといへり、中昔までは、にひたと呼びしお、ことなる桜の大木ありて、おちこち人の愛あへりしより、いつしか桜野の里と称すとぞ、今の氏家駅は、また天正年中より駅場となりし所にて、栗け島、増淵、内御堂、古宿等の四け村お合て一駅とせり、今の古宿と雲所ぞ、もとの氏家郷なる、また今氏家新田と雲所あれども、是は元和年中の新開とあれば混ずべからず、さて新田(にひた)氏家の両郷は、和名抄には芳賀郡なれど、中昔より塩谷郡に属したり、磐上駅は今の石上村なり、黒川駅も黒川村にて、ともに那須郡なり、都て足利、三鴨、田郡、衣川、新田、磐上、黒川それより奥の白川駅駅の間七八里許づヽあり、