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下野国誌
一郷名存廃
足利郡 大窪(おほくぼ) 田部 堤田 土師(はじ) 余戸駅家(よべのうまや) 大窪存す、今は大久保に作る、足利駅と佐野天明駅との間にあり、田部、堤田、土師ともに廃す、但し足利駅より上野国への往還筋に葉鹿(はじか)と雲村あり、もし土師の訛にてはあらぬか、余戸は存す、今は五十戸に作りて、よべと唱ふるなり、足利駅の西の方十余町許にあり、則ち上野への往還なり、新田老談記と雲書に、天正十二年、小田原の北条氏政金山の城お攻ける条に、五十戸大岩の郷人等雲々とみえたり、金山城は上野国新田郡にて、新田山(にひたやま)と古歌にもよめり、新田義貞朝臣も則ち此所に居住せり、後には由良信濃守貞治住す、 梁田郡 大宅 深川 余戸 ともに廃す 安蘇郡 安蘇 説多 意部 麻続 安蘇、説多、意部ともに廃す、麻続は存す、今は小見に作る、佐野天明駅の北の方にあり、さて麻続の続は績の誤りなり、 都賀郡 布多 高家(たけへ) 山後 山人 田後(たしり) 生馬(いくま) 秀文(しとり) 高栗 小山(おやま) 三島駅家(みかものうまや) 布多廃す、或人は二荒山お布多の荒山ならむかといへど、おぼつかなし、高家存す、今は武井に作る、家と井とは仮字たがへど、後世にはかヽる例数多あり、和名抄中、佐渡国の郷名にも高家ありて、仮字多介倍とあり、さて武井は栃木駅の南の方にあり、山後山人ともに廃す、田後は存す、今は田尻に作る、是は栃木の西北の方にあり、生馬存す、今は生駒に作りて寒川郡に属す、小山駅より佐野への往還筋なり、秀文は委文の誤にてしとりなり、今は志鳥に作りて、太平山の西北の方にあり、高栗廃す、但し東大寺要録に高栗と記したれば、もし田川にてはあらざるか、さらば今川の名に田川あり、よく考ふべし、小山存す、奥道中の駅家なり、三島駅は三鴨の誤にて、今の下津原村と雲所なり、兵部式に三鴨駅とみえ、また万葉集に美可母乃夜麻とあるも同所なり、委しくは下の名所の条にいふべし、 寒川郡 真木 池辺 努宜(ぬぎ) 真木、池辺廃す、努宜は存す、今は野木に作る、奥道中の駅なり、されど今都賀郡に属す、 河内郡 丈部(はせつかべ) 刑部(おさかべ) 大続 酒部(さかべ) 三川(みかは) 財部 真壁 軽部 池辺(いけのべ) 衣川駅家(きぬがはのうまや) 丈部廃す、但し芳賀郡にも丈部あれど、是も廃せり、万葉集巻二十に、天平勝宝七歳乙未二月、相替遣筑紫諸国防人等歌とある中に、下野国防人部塩屋郡上丁丈部足人が歌あり、また続日本後紀巻九に、陸奥国人丈部継成と雲人もみえて、則下野君の後なりとあれば、是も当国の丈部より出しものなるべし、刑部存す、宇都宮の東南にて、きぬ川の岸なり、大続廃す、酒部は坂上に作りて上三川の南にあり、三川存す、今の上三川なり、上中下とわかれたる内、下三川は今三村と称す、財部真壁軽部はともに廃す、池辺は宇都宮の古名にて、同所の池上街その名残なりと、上野宮住いへり、宇都宮は二荒神社のことなれば、地名はもとより池辺郷なるべし、池も鏡が池とて今あり、衣川駅は兵部式にもみえたれども、今廃したれば、何所とも定かならず、猶次の駅馬の条にいふべし、 芳賀郡 古家 広妹(ひろせ) 遠妹 物部(ものべ) 芳賀 若続(わかいろ) 承舎(つヾきや) 石田 氏家(うぢへ) 丈部 財部 川口 真壁 新田 古家、広妹、遠妹、ともに廃す、但し妹は妋の誤なるべし、今中川の辺に大瀬村あり、広瀬遠瀬などの転じたるにや、よく考ふべし、物部は真岡の南なる物井村なるべし、芳賀は天正年中より真岡と改む、されど字に芳賀口、また芳賀林、芳賀沼等なほ存せり、また芳賀氏の古城跡もあり、委しくは下条にしるす、若続は若績の誤にて、真岡の東なる若色村ならむと或人雲り、若色村は今東郷と唱ふれど、天正中までは若色郷にて、芳賀伊賀守が一族、若色掃部助と雲人居住す、承舎は今続谷に作りて、真岡の東北の方にあり、氏家は中頃より塩谷郡に属して、今奥道中の駅なり、丈部、財部廃す、但し今続谷村の北の方に給部村あり、財部の転じたるにや、よく考ふべし、川口は中川の辺なる川合ならむと或人雲り、真壁新田廃す、但し新田は兵部式にも新田駅とありて、今氏家駅の東北なる桜野村なりと雲、其は次にいふべし、 塩屋郡 山上 片岡 阿会 散伎(さぬき) 山下 余戸 塩屋はしほのやなるお、今の俗はのお省きてしほやと呼ぶなり、文字も近世は塩谷に作る、委しくは下の名所部の塩屋里の条にいふべし、さて山上廃す、片岡は今高原山の東南にあり、阿会廃す、散伎は佐貫に作りて、舟生駅の東南にあり、山下余戸はともに廃す、 那須郡 那須 大笥(おほけ) 熊田 方田 山田 大野 茂武(たけぶ) 三和(みわ) 全倉 大井 石上(いしかみ) 黒川 那須郡は往古は一国なり、国造本紀に、那須国造纏向日代朝御代、建沼河命孫大臣命定賜国造とあり、然るお孝徳天皇の御代に、坂東の小国お郡に改むるよしみえたれば、其時郡とは成しなるべし、また同書に、神野国造瑞籬朝御世、神八井耳命孫建五百建命定賜国造とある、神野国は那須郡に属して、今の狩野郷と雲所なり、白川の広瀬以寧は雲り、さもあらむか、さて那須郷と唱へし所は、いづこにか今知がたし、但し那須国造韋提と雲人の碑は、今黒羽城の南の方にて、湯津上村にあり、其辺ならむか、大笥は大桶に作りて、烏山城の北の方にあり、熊田も同所にあり、方田も堅田に作りて存す、山田も存す、黒羽城の東南にて、中川の東岸なり、大野は武茂庄に、今大野地と雲所あり、是なるべし、茂武は武茂の転倒にて、たけぶなり、今は武部に作る、神名帳に載せたる建武(たけぶ)山神社も当所にあり、続日本後紀には、下野国武茂神、坐採沙金之山とあり、今も其辺に金洗沢と雲所あり、然るお近世宇都宮の一族武茂常陸介と雲人、当所に居住して、字音のまヽにむもと唱へしお、今の俗は、訛りてもヽの庄と唱ふるなり、されど武部村おば、旧の如くたけぶと呼ぶなり、三和は三輪に作りて存す、三和神社も当所にありて、神名帳、三代実録等に載たり、全倉廃す、但し矢の倉と雲村あり、もし全は矢の誤にてはあらざるか、よく考ふべし、大井また大湯か、大湯村は葦野駅の西にあり、石上は今上下二村に分れて、太田原駅の西の方にあり、兵部式には磐上駅と記したり、黒川は奥道中の往還筋にて、黒川と雲川の岸なり、兵部式には黒川駅と記したり、また回国雑記にもみえたり、