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陸奥国郡私考
此国たるや、西南は毛野国〈◯註略〉に隣り、南方は常陸国に連る、上世より如是にして、方今とても同じ也、西方は上世は越の国に接す、越の国後に前、中、後の三国に分けられ、和銅中、出羽国お置るに及びては、西南は越後の国、西北は出羽国に接することヽはなりたり、東方は上世は国史の所謂陸奥の蝦夷の地にして、拾芥抄に載する所の行基が日本図お以見れば、〈按ずるに天智帝二年生、天平二十一年二月二日寂すとみゆ、続紀に、天平十年秋八月辛卯、令天下諸国造国郡図進あれば、行基のこの図は、諸国より国郡図お進ぜざる先に、回国の時実見お以て造りて、献りたるものなるべし、永く世に伝りて、めづらかなるものなれば、拾芥抄にも載せられたるものなるべし、〉このかみ此国ほとんど半は東北海まで、蝦夷の地たりしとみえたるお、時に随ひ世に随ひ、其地も漸々にひらくるまヽに中土とせられ、中外の堺漸々に東北に移り行きて、神亀天平の頃は、今の桃生、本吉の辺より東北なん残りて蝦夷の地なりしとみえ、多賀城の門碑に去蝦夷国界一百二十里とあり、おもひみるべし、其後藤鎮以来は、ただ渡島のみ蝦夷の地とはなりたるとみゆ、海お隔てヽ島に在るお渡島の蝦夷と雲、東鑑、文治五年九月の条に、泰衡将奔蝦夷、乃赴糠部郡とあるお以て知るべし、其後四百有余年、渡島の内松前と称する地、始て亦中土となる、国史略に雲、天正十六年、蠣崎慶広修使幣請内附、秀吉使慶広比内大名、慶広以松前自氏焉、至此松前始入版図と以て知べきなり、彼是この国は東方十二道の内の大国にして、やがて皇大御国に於ても、第一の大国なりと知られたり、