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平家物語

あこやの松の事東に聞ゆる出羽みちの国も、昔は六十六郡(○○○○)が一国なりしお、十二郡(○○○)にさきわかつて後、出羽の国とは立てられたるなり、されば実方の中将、おうしうへながされし時、当国の名所あこやの松おみんとて、国の内お尋ねまはるに、もとめかねて、すでにむなしう帰らんとしけるが、道にてある老おうに行きあたり、中将やヽ御へんはふるい人とこそ見れ、当国の名所あこやの松といふ所や、知りたるととふに、まつたく国の内には候はず、出羽の国にぞ候らんと申ければ、さては女も知らざりけり、今は世すへになりて、国の名所おもはや、皆よび失ひけるにこそとて、すでにすぎんとし給へば、老おう中将の袖おひかへて、あはれ君は、 みちのくのあこやの松に木隠て出べき月の出もやらぬか、といふ歌の心おもつて、当国の名所あこやの松とは御尋候か、それは昔両国が一国なりし時、詠み侍りし歌なり、十二郡さきわかつて後は、出羽の国にぞ候らんと申ければ、さらばとて実方の中将も、出羽の国にこへてこそあこやの松おば見てければ、〈◯下略〉