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新安手簡

前にも申上候が、俗間にて奥州五十四郡と申し候事に付て、印本の延喜式お見候へば、所管三十五郡之れ有り候、源順和名抄に参し候へば、最初に大沼一郡之れ有り候お、印本の式には闕候やの様に見へ候、尊藩に御善本の式之れ有るべく候、いかヾ候や、承はり奉りたき事に候、拾芥抄には三十六郡候へ共、和名抄とは異同之れ有り候、節用集に至ては、いかにも五十四郡候、此節用集のこと環翠の作とは申事に候へ共、慥に拠も存ぜず候、いかヾに候やの事、又次に当時公儀の御帳には、五十二郡と載せられ候とか、其内一郡に候お、領主のかはり故に、文字或は読候こともかへられ候事と聞へ候へば、実に五十郡と見へ候、平家物語阿古屋の松の下に、出羽陸奥の国も、昔は六十六郡が一国なりしお、十二郡おさき分て後出羽の国とは立られし也と之れ有り候、然らば、五徳冠者の時には、俗間に五十四郡の説之れ有り候ことは一定と聞へ候、然れども後来迄の証に引候はんに、平家物語又は節用集もいかヾにや之れ有るべく候、もし証にも立申べき物に、五十四郡と申す事しるし置候事御覧候か、此段思召お承りたく申述候、 先師申候は、若き時東鑑の講おせし人の、奥州は元六郡お一組づヽにせしことなり、御館お奥六郡の主と雲しも此れゆへなり、昔は六々三十六郡なりしお、後に六九五十四郡に分つて押領したるなりと雲し、是等は俗間に雲習はせる事も有るかと申し候、其講師の名も承り候へ共、久き事にて色々按じ候へ共、存じ出されず候、多年心掛候て、大かた沿革は存じ当り候へども、建置の兎角知れか子候、三け条の御尋、御垂示に預り候はヾ、大幸たるべく候、