[p.0145]
東遊雑記

十一日、〈◯天明八年五月〉白川(○○)城下止宿也、御城主は松平越中守君、〈十一万石〉市中千軒ばかり、御城おくる〳〵と取まわせし町なり、城は平城にして、大手からめ手の門前お往来の道として通行す、しかれども御門計見へて、御城は見えず、町の中へ流れお取て町わりおせし所なり、上方中国筋の城下と違ひて、町家見ぐるし、すべて此辺は諸品不自由にて、海魚至て希也、人物言語も劣り、民家の家造りあしヽ〈◯中略〉白川城下より棚倉へ六里、三春へ十二里、二本松へ十五里八丁、郡山へ九里、若松へ十九里〈◯中略〉十四日、福良〈二里半余〉原駅、〈三里余〉若松(○○)城下止宿、〈◯中略〉原の駅より若松への街道山道にて、〈◯中略〉坂の頂より若松の郷中お眼下に見る所あり、平地凡方五里もあらんとおもふ地なり、若松の城市中見ゆる町家草ぶきにて、瓦葺は希にあり、寒気強き所ゆへに瓦はよわしといふ、〈◯中略〉此所昔時蘆名党の古城跡にて、其後上杉家、蒲生氏居城ありしより、会津候の御知行の御城下ながら、備前岡山の城下などに見くらぶれば大に劣れり、婦人の容体殊にいやし、若松より二本松は寅に当りて十三里、西方越後の国界へ廿一里、北の方羽州米沢へ十四里、〈◯下略〉