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新撰陸奥風土記

風俗 我友大屋士田曰、按に当国大国なる故、所々の異なる風土有、然共凡山多き国なり、民俗本書に詳なり、会津は白川より西に入、遥に山谷相続たる国なり、西は越後に隣りて寒烈しく、雪深き事北国よりも勝れたり、岩城相馬〈相馬は所の本名にはあらず、総州の郡名なり、相馬次郎師常領此地住せしより自名となれり、〉は東の海浜なり、故外よりは寒緩し、白川、二本松、赤館、三春、白石、福島等の所々、皆山中の形気なり、仙台の如きは、当時繁昌の地なる故、風儀上国に習へり、奥郡に至りては、南部〈是又所の本名にあらず、甲州の在名なり、南部某領の自名とす、〉は仙台よりも尖どに寒烈雪深、津軽は南部よりも又烈、其風土に随て人心も自別なり、松前は蝦夷につづきて、風儀又異なり、しかれども本書に説如く、一偏の鄙属なる事各かはる事なし、古昔は奥の夷とて、人倫にも不通禽獣のごとき風なりしに、中古上国の人君長となり、政治お施す力により、其風に化せられ、おのづから人間の道おもしれるにや、されば近頃迄は、民家に子おぶつかへすと雲事あり、産子は乳に及びぬれば、其父母是お縊殺す、人是おあやしまず、父母も又恬然として惻む色なし、其不仁なる事実に夷狄の風なりしが、誠に仁風の遠く及べるにや、残忍の俗化して今其事なしとぞ、 一花径樵話〈大屋士田著〉曰、吾奥州の如きは、元より大管方維の封域、各其風土異なり、故に民利も又随て別あり、先吾仙台封内は、水田甚だ多くして、米穀お産する事海内に又多からず、然れども東都に運送の便宜く、殊に隣国も又米多からざる地あり、皆他邦に貨するお以て米価貴からず、又敢て至賤に至らず、封内二十一郡広大なりと雖、南北に阿武隈北上の両大河あるのみならず、支流又通船すべき者少からざるおもて、海浜の外と雖、諸貨物お運転するに、牛馬人力お省くもの少からず、民利実に多しと謂つべし、殊に西北の両地は山多く、東方は海浜、中央は平埧にして、水陸の田地多く、百穀塩鉄魚菜良材悉く備らずと雲事なし、皆上下の日用蓄蔵の余、皆他邦に貨するに至て猶余あり、しかして上野の余地少からず、故に上下甚だ富ずと雖、又甚だ貧しき者なし、此土産多しといへ共、貸するに便あり、又貸するに便ありと雖余猶あり、由て物価の利自ら常平に協ふ故なるべし、又南部は地甚だ広大なること仙台に過ぐといへ共、山野多く不毛の地半に過ぐ故に、米価の貴賤甚だ不同にして、上下の貧富も又不同也、津軽封内は沃地多く、土産も又随て火しと雖、松前不毛の国に隣て、貨利猶多し、故に上下の富近国に冠たり、又信夫伊達両郡は養蚕お貴て、農耕お次とす、故に桑田多くして穀田は少なし、由て豊歳には足るといへ共、凶歳には米穀乏し、又安達安積両郡〈二本松侯采地〉は、専農事お先として、米穀も又多く産す、然れ共信達両郡に貨するのみならず、封内広からず、又士人の俸禄采地にあらず、上下米穀の貴きお希ふ故に、常に賤しからず、不登に至る時は羽お生じて飛んとす、又会津封内は、四方険難多きのみならず、隣国皆米穀多し、貨するに道なし、大河なきにあらずと雖、水路所多く船お通じがたきお以て、諸産物皆牛馬人力お労するにあらざれば遠く運送しがたし、是に於て米穀封域に充満して、価甚賤し、故に上下富る者少し、封君年々数万石の米穀価お貴くして民に買ひ、又賤くして民に売、これお封内にて御捨米と唱ふ、下民の貧困お救ふの一仁政と雲ふべきなり、此等皆風土異にして、民利又同じからざるの一端なり、海内の諸封域悉く知るべきにあらざれども、此一端の理お以て風土お察し、地勢お鑑みる時は、民利の多少、物価の貴賤、亦指掌して知るべきなり、