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出羽国風土略記
十村山郡
最上郡の南に有、村山の東の方奥州仙台に隣る、小坂峠不動の手前に大木有、是お奥羽の境とす、西には越後と、当国の田河郡あり、北は新庄領也、四方各山お以境す、大郡にして四十万石余有、此内御公料あり、御私領六け所有、上の山領、山形領、松山領、〈飽海郡〉肥前島原領、宇都宮領、奥州棚倉領是也、三代実録四十九巻、仁和二年十一月十一日丙戌勅に、出羽国最上郡為二といふは、当郡の事也、延喜式二十二巻、仁和二年十二月十一日条下に、分最上郡置村山郡と有、同駅馬の条下お見るに、村山はもと一け村の名にして、駅路と見へたり、山に始て村お建たる所にして、一郡の名に用ひける成べし、今山形の四方十里程の間お最上郡とす、又最上郡北と書たるもの数多有、村山郡と改称の後も、土人呼馴たるは最上郡ともとなへ来りしにや、八九十年以前には、十が七つ最上郡といふ、村山郡と書たる者也、百十四年前慶安元年、山形の両所権現へ被下たる御朱印にも、最上郡と有、又寛文五年の御朱印にも最上郡と有、貞享年中より始て村山郡山形両所権現と被下置けるとぞ、貞享以来は、別て文明の世と成、国史も開板せられ、遠国迄も流布侍れば、分最上郡置村山郡と有るお勘合せられし人有之、御朱印にも村山郡と書改し成べし、三代実録五十巻、仁和三年四月二十日条下に、最上郡大山郷保室志野と有、〈上下略、但先定と有は、当時の事にあらず、仁和二年より先の事にて、村山と改ざる前の事と見へたり、〉此野に出羽府お移さんと、国司より奏したる所也、然れ共勅許なかりき、其文第一巻に記す、其文中に、最上郡地在国南辺、有山而隔、自河而通と有、是は出羽郡の府より、大山郷の方角おさしたる詞也、山形の地、出羽府より南に当り、地理方角国史に符合す、又当方山の字お以名とせし所多し、村上、上の山、山形等是なり、予〈◯進藤和泉〉按に往古は大山郷と書しお、後に山県と称し、又山形と転訛せしにや、