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日本地誌提要
三十六若狭
沿革 古へ国府お遠敷郡に置、〈今の府中村〉鎌府の時、惟宗忠季に今富荘お賜ひ、州守に任じ、其余郡邑お以て藤原行光、中条家長等に分与す、寛喜の初、将軍藤原頼経、惟宗氏の邑お収め、北条経時に賜ふ、爾後北条氏世本州お領して京畿お控制す、北条高時伏誅の後、内大臣藤原公賢国司となり、目代おして管理せしむ、足利尊氏の反する、族弟家兼及佐々木高氏おして之お分轄せしむ、興国中、家兼の兄高経守護となり、後山名時氏、大高重成、細川清氏、相継て守護お領す、正平十六年、清氏吉野に帰順す、足利義詮、石橋和(かず)義お守護とす、二十一年、一色範光之に代り、元中八年、子詮範(あきのり)、山名氏清お伐て功あり、丹後お加賜し、孫義貫に伝ふ、永享中、将軍義教、武田信栄(まさ)に命じて義貫お殺し、信栄お以て守護と為す、相伝る九世、元明に至り、朝倉義景に合して織田信長お拒む、義景亡び、元明降お乞ふ、信長丹羽長秀おして州お監せしむ、天正十年、豊臣秀吉、元明お近江海津(かいづ)に誘致して之お殺し、武田氏亡ぶ、〈九世百四十余年〉長秀因て守護となる、十三年、長秀卒し、子長重嗣ぐ、十六年、秀吉之お松任〈加賀〉に徙し、浅野長政お封ず、文禄二年甲斐に転封し、其地お分て小浜お〈六万石〉木下勝俊に、高浜お〈弐万石〉其弟利房に賜ふ、関原役畢り、徳川氏二人の封お没し、京極高次お封じ、小浜に治す、寛永元年、子忠高、越前敦賀お加賜す、十一年、之お出雲に徙し、其故地お以て酒井忠勝に賜ひ、〈拾万石〉世襲す、王政革新、改て県とし、又廃して敦賀県より兼治す、