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古事記伝
三十一
都奴賀は、血浦(ちうら)の転れる名なり、〈又血之臭(ちのか)のうつれるにやとも聞ゆ〉又書紀垂仁巻には、一雲、御間城天皇之世、額有角人、乗一船泊于越国笥飯浦、故号其処曰角鹿也雲々とあり、異なる伝なり、此二の伝、何れか正しからむ知がたけれど、応神天皇の大御歌に、既に都奴賀とよまし給へれば、〈若初は血浦と雲たらむには、其名の由縁、即此天皇の御目のあたりの書なれば、即血浦とこそよみ賜ふべけれ、又彼御世のほどは、此名の始より、いまだいくばくも経ざれば、転りて都奴賀と雲には至るまじければなり、〉書紀の方や正しからむ、〈但かの額に角ありし人の名お、都奴賀阿羅斯等と雲とあれば、角鹿は此人の名に依て負へる地名の如く聞ゆれども、彼名は皇国言の如くなれば、本よりの名には非ず、此間にてつけたるなるべし、此も額に角ありしに因てぞ然はつけつらむ、本よりの名は、亦名とて記せる方なるべし、◯中略、〉さて此名、又後には都流賀と雲、和名抄に、越前国敦賀〈都留我〉郡これなり、書紀武烈巻に、角鹿之塩の事見えたり、